「浄土一乗」の版間の差分
提供: 新纂浄土宗大辞典
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− | [[浄土]]の教えは[[仏教]]の真実唯一の教えである([[究竟大乗]][[浄土門]])という意。[[浄土]]の教えには[[二乗]]・三乗の差異がなく、[[本願]][[一乗]]であるということ。[[弘願]][[一乗]]、悲願[[一乗]]ともいう。『[[無量寿経]]』下に「[[一乗]]を究竟して、[[彼岸]]に至る」(聖典一・二五八/[http://jodoshuzensho.jp/jozensearch_post/search/detail.php?lineno=J01_0023 浄全一・二三])といい、[[善導]]『[[観経疏]]』玄義分の「[[十四行偈]]」に「我れ、[[菩薩]]蔵、[[頓教一乗海]]に依って、偈を説いて、[[三宝]]に帰して、[[仏心]]と相応せん」(聖典二・一六〇/[http://jodoshuzensho.jp/jozensearch_post/search/detail.php?lineno=J02_0001 浄全二・一])というのもこの意味である。[[善導]]が[[阿弥陀仏]]および[[西方浄土]]を「[[法性]]の常楽」「[[西方]]の寂静[[無為]]楽」「[[極楽]][[無為涅槃界]]」「[[弥陀]]妙果を号して無上[[涅槃]]」というのも同じ意味である。[[聖光]]は『[[西宗要]]』二に「[[浄土宗]]の[[一乗]]とは、[[一向専修]]の[[南無阿弥陀仏]]の[[一乗]]なり、此の行の外に更に余行無し」([http://jodoshuzensho.jp/jozensearch_post/search/detail.php?lineno=J10_0155 浄全一〇・一五五下])といい、また「此の心性[[真如]]を[[具足]]する人、[[念仏]]して[[極楽]]に[[往生]]して終に此の理を顕わさんと云う[[一乗]]なり、されば[[本願]][[往生]]の仏意の[[一乗]]なり」([http://jodoshuzensho.jp/jozensearch_post/search/detail.php?lineno=J10_0156 浄全一〇・一五六上])という。[[良忠]]の『[[伝通記]]』玄義分記二によると「[[一乗]]と言うは三乗の異なり無きを名づけて[[一乗]]と為す…是の故に願じて言く、我が[[国土]]をして皆是れ大乗一味等味にして、根敗の[[種子]]、畢竟じて生ぜず、女人残欠の[[名字]]も亦断ぜしめん。是の故に[[大乗善根界]]等無譏嫌名と言う」([http://jodoshuzensho.jp/jozensearch_post/search/detail.php?lineno=J02_0107 浄全二・一〇七上])とし、「之に準ずるに所詮の[[国土]]既に[[一乗]]なれば、能詮の教門も亦是れ[[一乗]] | + | [[浄土]]の教えは[[仏教]]の真実唯一の教えである([[究竟大乗]][[浄土門]])という意。[[浄土]]の教えには[[二乗]]・三乗の差異がなく、[[本願]][[一乗]]であるということ。[[弘願]][[一乗]]、悲願[[一乗]]ともいう。『[[無量寿経]]』下に「[[一乗]]を究竟して、[[彼岸]]に至る」(聖典一・二五八/[http://jodoshuzensho.jp/jozensearch_post/search/detail.php?lineno=J01_0023 浄全一・二三])といい、[[善導]]『[[観経疏]]』玄義分の「[[十四行偈]]」に「我れ、[[菩薩]]蔵、[[頓教一乗海]]に依って、偈を説いて、[[三宝]]に帰して、[[仏心]]と相応せん」(聖典二・一六〇/[http://jodoshuzensho.jp/jozensearch_post/search/detail.php?lineno=J02_0001 浄全二・一])というのもこの意味である。[[善導]]が[[阿弥陀仏]]および[[西方浄土]]を「[[法性]]の常楽」「[[西方]]の寂静[[無為]]楽」「[[極楽]][[無為涅槃界]]」「[[弥陀]]妙果を号して無上[[涅槃]]」というのも同じ意味である。[[聖光]]は『[[西宗要]]』二に「[[浄土宗]]の[[一乗]]とは、[[一向専修]]の[[南無阿弥陀仏]]の[[一乗]]なり、此の行の外に更に余行無し」([http://jodoshuzensho.jp/jozensearch_post/search/detail.php?lineno=J10_0155 浄全一〇・一五五下])といい、また「此の心性[[真如]]を[[具足]]する人、[[念仏]]して[[極楽]]に[[往生]]して終に此の理を顕わさんと云う[[一乗]]なり、されば[[本願]][[往生]]の仏意の[[一乗]]なり」([http://jodoshuzensho.jp/jozensearch_post/search/detail.php?lineno=J10_0156 浄全一〇・一五六上])という。[[良忠]]の『[[伝通記]]』玄義分記二によると「[[一乗]]と言うは三乗の異なり無きを名づけて[[一乗]]と為す…是の故に願じて言く、我が[[国土]]をして皆是れ大乗一味等味にして、根敗の[[種子]]、畢竟じて生ぜず、女人残欠の[[名字]]も亦断ぜしめん。是の故に[[大乗善根界]]等無譏嫌名と言う」([http://jodoshuzensho.jp/jozensearch_post/search/detail.php?lineno=J02_0107 浄全二・一〇七上])とし、「之に準ずるに所詮の[[国土]]既に[[一乗]]なれば、能詮の教門も亦是れ[[一乗]]なり」([http://jodoshuzensho.jp/jozensearch_post/search/detail.php?lineno=J02_0107 同])という。同じく[[良忠]]の『[[東宗要]]』一に「三乗の異無きが故に[[一乗]]と云う」([http://jodoshuzensho.jp/jozensearch_post/search/detail.php?lineno=J11_0006 浄全一一・六上])といい、また「彼の依正は皆な[[真実智慧無為法身]]を以て体と為し、更に余の[[有漏]][[有為]][[二乗]]之法を<ruby>雑<rt>まじ</rt></ruby>ゆることなし。故に[[一乗]]という」([http://jodoshuzensho.jp/jozensearch_post/search/detail.php?lineno=J11_0006 浄全一一・六下])とある。[[聖冏]]の『<ruby>[[糅鈔]]<rt>にゅうしょう</rt></ruby>』一八には「[[穢土]]の[[一乗]]すら猶[[浄土]]の[[一乗]]の由漸と為すに足らず、況や[[浄土]]の[[一乗]]何ぞ[[穢土]]の[[一乗]]の[[方便]]と為すことを得んや、彼は錬金の純金なり、是は変金の純金なり。純金は似ると雖も、錬変列て異なるなり。夫れ[[自力]]の[[一乗]]は調機の爐炭に向かいて智火の焰煙を揚げ、[[方便]]の鉱垢を却けて[[一実]]の純金を融す、故に難[[行道]]なり。今[[他力]]の[[一乗]]は、[[弘願]]の逸風調機の格を用いず、即相不退は智火の煙を見ず」([http://jodoshuzensho.jp/jozensearch_post/search/detail.php?lineno=J03_0417 浄全三・四一七上])と述べ、[[浄土]]の[[一乗]]とは、変金[[不可思議]]の[[一乗]]であるとし、[[聖冏]]の『[[二蔵義見聞]]』六には「今此の教は[[浄土]]の[[一乗]]なり、超勝の[[一乗]]なり、特妙の[[一乗]]なり、単信の[[一乗]]なり、[[自然]]の[[一乗]]なり、[[他力]]の[[一乗]]なり、[[龍樹]][[菩薩]]は之を純金の[[一乗]]と謂う。既に是れ心地[[修行]]の及ぶこと能わざる[[浄土]]不共の[[一乗]]なり」([http://jodoshuzensho.jp/jozensearch_post/search/detail.php?lineno=J12_0465 浄全一二・四六五])とも述べている。つまり、[[法蔵菩薩]]が<ruby>兆載永劫<rt>ちょうさいようごう</rt></ruby>にわたる過去の[[修行]]によって得た仏身と、その[[国土]]の[[荘厳]]([[浄土]]の[[依正二報]])は一仏乗の妙果であって、これを無上([[涅槃]])の[[一乗]]ともいい、[[本願]]に誓われた[[念仏]]によって[[浄土]]へ[[往生]]する法門を、ほかの大乗諸教でいう[[一乗]]と区別している。 |
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【執筆者:金子寛哉】 | 【執筆者:金子寛哉】 |
2018年9月17日 (月) 10:08時点における最新版
じょうどいちじょう/浄土一乗
浄土の教えは仏教の真実唯一の教えである(究竟大乗浄土門)という意。浄土の教えには二乗・三乗の差異がなく、本願一乗であるということ。弘願一乗、悲願一乗ともいう。『無量寿経』下に「一乗を究竟して、彼岸に至る」(聖典一・二五八/浄全一・二三)といい、善導『観経疏』玄義分の「十四行偈」に「我れ、菩薩蔵、頓教一乗海に依って、偈を説いて、三宝に帰して、仏心と相応せん」(聖典二・一六〇/浄全二・一)というのもこの意味である。善導が阿弥陀仏および西方浄土を「法性の常楽」「西方の寂静無為楽」「極楽無為涅槃界」「弥陀妙果を号して無上涅槃」というのも同じ意味である。聖光は『西宗要』二に「浄土宗の一乗とは、一向専修の南無阿弥陀仏の一乗なり、此の行の外に更に余行無し」(浄全一〇・一五五下)といい、また「此の心性真如を具足する人、念仏して極楽に往生して終に此の理を顕わさんと云う一乗なり、されば本願往生の仏意の一乗なり」(浄全一〇・一五六上)という。良忠の『伝通記』玄義分記二によると「一乗と言うは三乗の異なり無きを名づけて一乗と為す…是の故に願じて言く、我が国土をして皆是れ大乗一味等味にして、根敗の種子、畢竟じて生ぜず、女人残欠の名字も亦断ぜしめん。是の故に大乗善根界等無譏嫌名と言う」(浄全二・一〇七上)とし、「之に準ずるに所詮の国土既に一乗なれば、能詮の教門も亦是れ一乗なり」(同)という。同じく良忠の『東宗要』一に「三乗の異無きが故に一乗と云う」(浄全一一・六上)といい、また「彼の依正は皆な真実智慧無為法身を以て体と為し、更に余の有漏有為二乗之法を雑ゆることなし。故に一乗という」(浄全一一・六下)とある。聖冏の『糅鈔』一八には「穢土の一乗すら猶浄土の一乗の由漸と為すに足らず、況や浄土の一乗何ぞ穢土の一乗の方便と為すことを得んや、彼は錬金の純金なり、是は変金の純金なり。純金は似ると雖も、錬変列て異なるなり。夫れ自力の一乗は調機の爐炭に向かいて智火の焰煙を揚げ、方便の鉱垢を却けて一実の純金を融す、故に難行道なり。今他力の一乗は、弘願の逸風調機の格を用いず、即相不退は智火の煙を見ず」(浄全三・四一七上)と述べ、浄土の一乗とは、変金不可思議の一乗であるとし、聖冏の『二蔵義見聞』六には「今此の教は浄土の一乗なり、超勝の一乗なり、特妙の一乗なり、単信の一乗なり、自然の一乗なり、他力の一乗なり、龍樹菩薩は之を純金の一乗と謂う。既に是れ心地修行の及ぶこと能わざる浄土不共の一乗なり」(浄全一二・四六五)とも述べている。つまり、法蔵菩薩が兆載永劫にわたる過去の修行によって得た仏身と、その国土の荘厳(浄土の依正二報)は一仏乗の妙果であって、これを無上(涅槃)の一乗ともいい、本願に誓われた念仏によって浄土へ往生する法門を、ほかの大乗諸教でいう一乗と区別している。
【参照項目】➡究竟大乗
【執筆者:金子寛哉】