「一枚起請文」の版間の差分
提供: 新纂浄土宗大辞典
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2018年9月17日 (月) 00:25時点における最新版
いちまいきしょうもん/一枚起請文
一紙。「御誓言の書」などとも呼ばれる。法然述。建暦二年(一二一二)正月二三日に源智の請いに応えて著したと伝えられる。ただし実際には一二世紀末から法然が寂した建暦二年までの間の成立か。江戸期の学僧義山が『一枚起請弁述』で「広くすれば選択集 縮むれば一枚起請なり」(浄全九・一二三上)と述べるように、念仏の教えとその実践の要点を一紙にまとめた法語といえる。法然遺文の中で最も有名な法語で、日常勤行において日々拝読される。中でも「智者の振る舞いをせずして、ただ一向に念仏すべし」の一句は要文中の要文として、説教の讃題としても頻繁に引用されている。
本法語には種々の伝承本が現存するが、大別して聖光伝承本と源智伝承本の二系統となる。聖光伝承本は『和語灯録』五「諸人伝説の詞(聖光上人伝説の詞)」、および聖光『善導寺御消息』(一二二八年成立)に所収される。両本には相互に字句の出入りがあるものの、いずれも源智伝承本に見られない特色を有するゆえに、源智伝承本とは別系統であることがわかる。なお、聖光伝承本と源智伝承本の先後関係については既に江戸期にも論じられており、忍澂『吉水遺誓諺論』・法洲『一枚起請講説』(浄全九・一六下、二四一下)等は聖光伝承本先行説、貞極『一枚起請文十勝』(『四休菴貞極全集』下・一四九八上〜下)などは源智伝承本先行説を採る。その際、貞極は忍澂の『吉水遺誓諺論』を引いて批判するが、それに対し忍澂は『吉水遺誓諺論附録』(浄全九・五八上〜下)において再反論を行っている。
一方、源智伝承本はさらに本文のみのものと、本文に「添え書き」を付したものとに分類される。前者には『和語灯録』一所収の「御誓言の書」や『弘願本』『四十八巻伝』などの法然伝所収本が、後者には金戒光明寺蔵伝法然真筆本などの多くの写本が含まれる。
前者の本文のみの各種諸本の成立については、『四十八巻伝』四五(聖典六・六八八/法伝全二八四)や『九巻伝』七下(法伝全四三八下~九上)で源智が法然に形見として所望したという伝承を有する。「御遺訓」とされる由縁である。さらに金戒光明寺蔵本ではそれを亡くなる二日前の正月二三日と明言している。ところが、より古い法然伝である『弘願本』(法伝全五三二上~下)では、源智の所望は平生の時のことであると読め、さらに『和語灯録』一でも単に「これは御自筆の書なり。勢観聖人に授けられき」(聖典四・二九九/昭法全四一六)とあるだけで、その時期は平生とも臨終とも特定できない。『善導寺御消息』(昭法全四三五)によると、聖光は法然から直接に本法語を伝えられたと述べており、それが真実なら、聖光が法然のもとにいたのは正治元年(一一九九)から元久元年(一二〇四)であるので、本遺文は法然入滅の一〇年ほど前には成立していたということになる。
一方、源智伝承本系統のうち、「添え書き」付きの各種諸本の成立は、一六世紀前半以降と考えられる。なぜなら、一六世紀初頭までの諸本では「添え書き」はなく、一六世紀前半の写本等から「添え書き」が見られるようになるからである。一六世紀前半以降、「添え書き」付きが増え、江戸期では大半が「添え書き」付きとなる。
これと同様のことは表題についてもあてはまる。法然滅後一五〇年ほどまでの諸本では、本法語は無題もしくは「御誓言の書」(『和語灯録』一等)、「一枚消息」(『四十八巻伝』四五等)、「黒谷上人御起請文」(『存覚袖日記』)などと様々な表題が付されている。一四世紀末の聖冏『一枚起請之註』以降になって「一枚起請」という呼称が一般的となるものの、金戒光明寺蔵本の「一枚起請文」という表題が広まり、定着するのはやはり一六世紀前半以降である。
本遺文がなぜ「起請文」と名付けられることになったのかという点については、本遺文中の「この外に奧深き事を存ぜば、二尊の御愍に外れ本願に漏れそうろうべし」(聖典四・二九九/昭法全四一六)の一文が、法然自身の「起請」と捉えうるからとされる。ところが、もし本来無題であったなら、その内容からしてこの一文を「起請文」ではなく、弟子に対する「制誡」、即ち「この他に奥深きことを考えてはならない」という誡めと受け取ることも十分可能である。そもそもこの一文は典型的な起請文の「前文」+「神文・罰文」という形と大きく異なるのみならず、聖光伝承本では起請文とはまったく無関係な別文となっている。確かに「御誓言の書」「黒谷上人御起請文」という表題は法然自身の「誓言」「起請文」であるという理解を示しているといえるが、その一方で聖冏は「一枚起請」という表題を用いながら、註釈の本文を見ると「起請文」ではなく「制誡」の意味で理解しているように見受けられる。当時、「起請」(ときには「起請文」)はしばしば「制誡」の意味でも使われていたという指摘があることからして(早川庄八「起請管見」〔『律令国家の構造』吉川弘文館、一九八九〕)、「一枚起請」とは「制誡」の意であった可能性もありえるといえよう。ただし、江戸期以降に作成された諸注釈書では一貫して「起請文」と受け取っており、現在の浄土宗でもその見解に基づいて理解している。
さて、これら諸本のうち、日常勤行で法語の一つとして読まれているのは、金戒光明寺本に基づく「添え書き」付きのものである。まず本文では、「自身が勧める念仏は観想念仏でもなく、念仏の意味を理解した上でとなえる念仏でもない。ただ極楽往生のためには、〝念仏で必ず往生できるのだ〟と思い定めて申す、それだけである。三心や四修も念仏する内に自然と具わる。これ以外に奥深き教えはない。よって念仏往生を信じる人は、たとえ釈尊の全ての教えをしっかりと学び尽くしたとしても、自分は愚鈍の者であると受けとめ、智者ぶった振る舞いをすることなく、ただ一筋に念仏をすべきである」ということが述べられる。そして「添え書き」では、「以上のことを証明するために両手の手印を押しておく。浄土宗の安心・起行(信と行)はこの一紙に極まっている。私の滅後に邪義が生じるのを防ぐために、所存を記しておく」と述べ、最後に「建暦二年正月二十三日」という日付が記されている。
なお、『九巻伝』七下(法伝全四三九上)によると、源智はこの『一枚起請文』を首から掛けて秘蔵していたが、川合の法眼に授けて以来、世に広まったとされる。他宗の僧侶、在俗の人たちにもよく知られた法語であり、例えば、後柏原天皇、尊鎮法親王、足利義政をはじめとする天皇・貴族・武家が競ってこれを書写し、浄土真宗の存覚は『袖日記』において、臨済宗の一休も『狂雲集』下で本法語に言及している。さらに、臨済僧で天龍寺住職の桂洲(一七一四—一七九四)は本法語を「一紙に大蔵経を含むもの」(隆円『吉水遺誓諺論附録正流弁』浄全九・六一上)と讃え、幸田露伴は「神品」(幸田文編『蝸牛庵語彙』)と評し、また高村光太郎は「おそろしい告白の真実」(『智恵子抄』)と述べるなど、浄土宗僧侶以外の者も多くこれを讃嘆する。
なお、室町後期以後、『一枚起請文』の擬古文として「飲酒一枚起請」「茶の湯一枚起請文」「俳諧一枚起請」「商人一枚起請文」「渡世一枚起請文」「和歌一枚起請文」「哲学一枚起請文」などが作成されたことも、本法語が人口に膾炙していた証左となろう。
【所収】聖典四、昭法全
【参考】小川龍彦『一枚起請文原本の研究』(同刊行会、一九七〇)、藤堂恭俊『一枚起請文のこころ』(東方出版、一九八七)、野田秀雄編著『一枚起請文あらかると』(四恩社、二〇〇〇)、玉山成元「一枚起請文について」(日本名僧論集第六巻『法然』吉川弘文館、一九八二)、安達俊英「法然『一枚起請文』の文献的性格」(佛教大学総合研究所紀要別冊『浄土教典籍の研究』、二〇〇六)
【執筆者:安達俊英】