「山下現有」の版間の差分
提供: 新纂浄土宗大辞典
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やましたげんゆう/山下現有
天保三年(一八三二)一〇月一九日—昭和九年(一九三四)四月一一日。謙蓮社孝誉真善妙阿。字は葵堂。知恩院七九世。宗門功労者で、近代の代表的な高僧。現在の愛知県一宮市大赤見に山口安蔵の長男として生まれ、天保一一年(一八四〇)樹敬寺(三重県松阪市)の梧雲のもとで出家得度し、俊敬と命名される。弘化元年(一八四四)増上寺山下谷安祥室賢従の寮に入り、修学。嘉永二年(一八四九)増上寺において宗戒両脈を相承する。賢従の栄転により館林善導寺・京都清浄華院に随従するも、学問不足を理由に辞した後、増上寺の学席に復し、最勝院名阿について研鑽する。同七年安祥室寮主に選任され、また居住地である山下谷にちなんで山下を姓とし、名を現有と改める。廃仏毀釈の影響により増上寺の学制が退廃する中、学徒の指導育成につとめた。さらに当時の山口藩制は領民が領外に出ることを禁じていたため、学徒の檀林就学が阻まれていた。事態を憂慮した増上寺明賢の命により、明治三年(一八七〇)養鸕徹定とともに山口県善生寺に山口講学場(浄土宗学校)を設立、関東檀林の制度に則して講義や加行伝宗伝戒を行った。同七年東京幡随院の住職となるが、一年足らずで安祥室に戻る。同一二年円成寺(愛知県津島市)住職、続いて同二〇年百万遍知恩寺法主に就任するも、同二三年京都転法輪寺に隠棲し、念仏三昧の生活に入る。同二六年大日比西円寺(山口県長門市)住職を兼ねる。同三〇年増上寺法主に任じられ、山規の改定・御忌会の再興・東京婦人会創立・授戒五重の毎年開筵などの大業をなす。同三五年浄土宗管長・知恩院門跡となり、「明照大師」諡号の勅額拝戴や宗祖七〇〇年遠忌などの重大法要を奉修する。また阿弥陀堂再建をはじめとした多くの事業を達成し、昭和三年(一九二八)昭和天皇即位の大礼の際に、布教・教育・社会教化の功績者として金杯を受ける。一宗にとどまらず、仏教界の長老として敬われ、「生き仏」の尊称を受けた。著書に『安心決定集』(一八九三)、『攖寧邨舎詩』(一九三〇)がある。
【参考】井川定慶『高僧山下現有上人』(政教書院、一九三四)、深貝慈孝編『孝誉大僧正の追憶』(転法輪寺、一九八三)
【執筆者:伊藤瑛梨】