「絵解」の版間の差分
提供: 新纂浄土宗大辞典
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2018年3月30日 (金) 06:20時点における最新版
えとき/絵解
経典の内容を絵画化した曼陀羅や変相図、釈尊の生涯を題材にした八相図や涅槃図、あるいは、祖師高僧の絵伝、寺社縁起の絵図など、宗教的背景を持った絵画を用いて、その思想や内容を当意即妙に語ること。視聴覚に訴える絵解はインドに起こり、中央アジア、中国といった大乗仏教の流伝とともに日本に入り、日本で独自の発展を遂げた。平安末期以後、それを職業とする人が現れ、鎌倉時代より芸能化しはじめ、室町時代には、地獄絵などを説明するのに琵琶に合わせて語るなど、俗人の解説者も現れた。江戸時代には、大道芸の様相にもなった。形式としては、仏画の掛け軸や絵巻物を掲げ、指し棒を持ってその絵を説明する。法要時の布教の一方法として、寺院の僧侶が語ったと考えられるが、多くは大道芸として、絵解法師などと呼ばれる姿形のみの僧侶によって演じられた。これは仏教が庶民に浸透するのに併行して盛んになったと考えられる。仏教の宣布のための布教の視聴覚的工夫といえる。日本における初出の文献は、醍醐天皇の皇子、重明親王の日記『吏部王記』とみられ、承平元年(九三一)に重明親王が『釈迦八相図』の絵解を受けたことが記載される。次に藤原頼長の日記『台記』には、康治二年(一一四三)に四天王寺で藤原忠実と頼長の親子が『聖徳太子絵伝』の絵解を観聴したと記述される。中世に入ってようやく、『一遍聖絵』などに絵解が行われていたことが察せられ、庶民へ向けた布教が見られるようになる。絵解の材料は、霊山霊地の参詣案内図や、地獄の苦しみを描いた掛け軸で、『住吉祭礼図』には、観心十界図を示して絵解する熊野比丘尼が描かれている。
【参考】京都国立博物館監修『日本の説話画』(便利堂、一九六一)、『一冊の講座』編集部編『絵解き』(『一冊の講座』日本の古典文学三、有精堂出版、一九八五)
【執筆者:伊藤真宏】