「南無阿弥陀仏」の版間の差分
提供: 新纂浄土宗大辞典
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なむあみだぶつ/南無阿弥陀仏
阿弥陀仏に帰依するの意。六字名号、単に名号ともいう。原語は特定されていないが、Ⓢnamo ’mitābhāya buddhāya、あるいはⓈnamo ’mitāyuṣe buddhāyaなどが想定される(’mitābhāyaや’mitāyuṣeとされて、語頭の「A」が落ちるのは音韻の関係である)。日本における発音としては、浄土宗では「なむあみだぶ」「なむあみだぶつ」と発声するが、他宗では「なもあみだぶつ」や「なんまいだぶ」「なんまんだ」などと発音されることもある。たとえば一遍は「とことはに南無阿弥陀仏ととなふればなもあみだぶにむまれこそすれ」と詠むように「なもあみだぶ」と唱えていたようである。
[出典]
「南無阿弥陀仏」の出典は『観経』である。『観経』下品上生に「智者また教えて、合掌叉手して南無阿弥陀仏と称せしむ。仏名を称するが故に、五十億劫生死の罪を除く」(聖典一・三一一/浄全一・四九)とあり、『同』下品下生に「汝もし念ずること能わずんば、まさに無量寿仏を称すべしと。かくのごとく至心に、声をして絶えざらしめ、十念を具足して、南無阿弥陀仏と称す。仏名を称するが故に、念念の中において、八十億劫の生死の罪を除く」(聖典一・三一三/浄全一・五〇)とあるように、『観経』では声を出して南無阿弥陀仏を称えることによる滅罪の功徳が説かれている。経典ではこの他に、『仏名経』に確認できる。また類似する表現には『大阿弥陀経』に「南無阿弥陀三耶三仏檀」などがある。
[語義]
南無阿弥陀仏の意味については、善導『観経疏』玄義分において「南無阿弥陀仏と言うは、またこれ西国の正音なり。また南はこれ帰、無はこれ命、阿はこれ無、弥はこれ量、陀はこれ寿、仏はこれ覚なり。故に帰命無量寿覚と言う。これすなわち梵漢相対するに、その義かくのごとし」(聖典二・一六三~四/浄全二・二下)と釈される。これによると南無阿弥陀仏とはサンスクリット語を音訳したものであり、意味としては「帰命無量寿覚」になるという。この理解は、南無阿弥陀仏の全体の意味としては正当なものである。言語学的に、南無阿弥陀仏を梵語namo ’mitāyuṣe buddhāyaの音写と想定した場合、「阿=無」と「仏=覚」と理解できる。ただし「南無namo」を「南」と「無」に分け「南=帰」「無=命」とする理解、同様に「弥陀mitāyuṣe」を「弥」と「陀」に分け、「弥=量」「陀=寿」とするのは、梵語における理解とは異なる。また「阿弥陀」は無量寿と無量光の両義を含む語であることが指摘されており、「南無阿弥陀仏」にも「無量寿仏に帰依する」との意味と、「無量光仏に帰依する」との意味が含まれているといえ、南無阿弥陀仏に含まれる意味が幅広いものであることが理解される。
[理解]
善導は、南無阿弥陀仏について、南無には発願回向の義があり、阿弥陀仏はその行であるといい、南無阿弥陀仏と称えることで、願と行とが具足するから往生が可能になると説く。法然は『選択集』を「南無阿弥陀仏 往生の業には念仏を先となす」(聖典三・九七)と書き始め、極楽往生は南無阿弥陀仏と称えることによって遂げられる、と述べた。さらに、仏によって念仏の一行が往生の本願として選取されたことについて、仏の聖意は測りがたいと述べつつ「名号はこれ万徳の帰する所なり」(聖典三・一一八)と念仏が勝れている点を説き、念仏の実践が容易であるが故に、仏は「称名念仏の一行を以て、その本願としたまえる」(同一二〇)と述べ、念仏について勝劣と難易の二面から考察を加えている。聖光は『授手印』において「心には三心を存して、口には南無阿弥陀仏と称するなり。この宗の意、この行を以て第一の行と為す」(聖典五・二二六)と述べ、南無阿弥陀仏と称える行が、浄土宗の第一の実践と述べる。良忠は『伝通記』において、善導『観経疏』の南無阿弥陀仏の解釈について「南無阿弥陀仏とは、経の題に南無仏の言なしといえども、しかも六字の名号は一経の肝心、一宗の要行」(浄全二・一四〇下)であるから、無量寿の解釈に合わせて南無阿弥陀仏の釈をあげたという。南無阿弥陀仏の理解に関しては、法然門下において相違がある。たとえば、真宗では「南無=発願回向」を阿弥陀仏が衆生に行を回向したと理解し、阿弥陀仏の召喚によって、衆生は本願行である念仏を称えることになると理解する。しかし、浄土宗において南無阿弥陀仏は、「南無」とは凡夫が往生を志す「願」であり、その心によって「阿弥陀仏」と称えることが往生のための「行」となり、南無阿弥陀仏の六字は願行具足したものであり、往生のための実践行である。それゆえ一向に六字の名号を称えることで往生が叶うとする。さらに『一枚起請文』や『授手印』においても説かれる、三心、四修、五念などについては、往生を願って南無阿弥陀仏と称えるうちに含まれることとなる。極楽往生のためには南無阿弥陀仏と称え、疑いなく往生すると思う以外に道はなく、それゆえ南無阿弥陀仏と称える口称念仏の相続が肝要となる。
【資料】『徹選択集』、『決疑鈔』
【参考】石井教道『選択集全講』(平楽寺書店、一九五九)、藤田宏達『浄土三部経の研究』(岩波書店、二〇〇七)、林田康順「法然上人〈選択〉思想の成立とその意義」(『仏教論叢』五四、二〇一〇)
【参照項目】➡名号一、阿弥陀仏、南無、六字釈、勝劣の義、難易の義、選択本願念仏、結帰一行三昧
【執筆者:石田一裕】