禅宗念仏
提供: 新纂浄土宗大辞典
ぜんしゅうねんぶつ/禅宗念仏
禅宗が行う念仏の修行形態。『坐禅三昧経』に「当に一心に念仏三昧を教えるべし」(正蔵一五・二七六上)と述べて、仏・菩薩を観想することによる念仏が三昧および禅定の境地であるとした。初期の禅宗では、このような観想念仏が行われたが、それを主張する禅者は多くなかった。宋代に至り、念仏十万遍を日課として行う法眼宗の永明延寿は、『万善同帰集』に「唯心浄土」説を提唱することによって、禅浄一致の思想を形成し、禅思想に新たな要素を導入する大きな流れを作り上げた。臨済宗の大慧宗杲が王日休の『龍舒浄土文』に与えた跋文に記した「若し自性の阿弥を見れば、即ち唯心の浄土を了る」(正蔵四七・二八三中)に見られるように、宋代における多くの禅者は、念仏と真実の自己への探求を目指す禅の宗旨とは共通すると認めていた。明代の袾宏の『禅関策進』にある「但だ阿弥陀仏の四字のみを将い、箇の話頭と做し、二六時中、直下に提撕すべし。一念も生せざるに至れば、階梯を渉らず、径ちに仏地を超える」(正蔵四八・一一〇二中)とは、阿弥陀仏の念誦を禅宗の公案と結びつけた典型的な例であると言える。江戸時代に日本に伝来した黄檗宗が念仏を重視したことも、その表れである。懐音の『諸家念仏集』四(浄全一五)は、禅宗の念仏を①摂心②数息③参究④直念⑤実相⑥信願の六種と整理し、浄土宗から見た禅宗の念仏様相を示した点が特徴的である。
【参考】田中良昭『禅学研究入門・第二版』(大東出版社、二〇〇六)
【参照項目】➡禅浄双修
【執筆者:林鳴宇】