三身即一
提供: 新纂浄土宗大辞典
さんじんそくいつ/三身即一
法身・報身・応身の三身が、一仏の上に具わっていること。阿弥陀仏の仏身を三身のいずれかに規定する仏身論を三身別体論というのに対し、三身が一仏に具わっていることを三身同体論および三身即一という。道綽は『安楽集』において「阿弥陀仏また三身を具す」(浄全一・六七七上)といい、阿弥陀仏が三身を具足することを明らかにし、善導は『往生礼讃』において「一切の諸仏は三身同じく証し、悲智、果円かにまた応に無二なるべし」(浄全四・三五六下)といい、『観経疏』定善義において「諸仏は三身同じく証し、悲智、果円かなること、等斉して二無し」(聖典二・二六七〜八/浄全二・四六下)と述べ、仏はみな三身を具足するとしている。法然は『逆修説法』四七日において「仏に惣別の二功徳まします。先ず惣とは四智三身等の功徳なり。一切諸仏は内証等しく具して一仏も異なりなき故に、諸経の中に仏の功徳を説くに、惣じて内証の功徳をば説かず。ただ別して外用の功徳を説くなり」(昭法全二五五)と述べ、総—内証—諸仏平等、別—外用—仏の個別的作用とした上で三身を内証の功徳としている。また『選択集』三では勝劣の義を説く中で「初めに勝劣とは念仏はこれ勝、余行はこれ劣なり。所以は何となれば、名号はこれ万徳の帰する所なり。然ればすなわち弥陀一仏の所有る四智・三身・十力・四無畏等の一切の内証の功徳、相好・光明・説法・利生等の一切の外用の功徳、皆ことごとく阿弥陀仏の名号の中に摂在せり。故に名号の功徳最も勝とす。余行は然らず、各一隅を守る。ここをもって劣とす」(聖典三・一一八/昭法全三一九)と説き、三身を内証の功徳としている。このように法然の説く三身即一とは、三身を証果の一つとし、阿弥陀仏の内証の功徳とするものである。すなわち「阿弥陀仏は報身であり、内証に三身を具足する」というのが、法然の捉え方である。なお、聖冏および聖聡は、それぞれ『二蔵義見聞』(浄全一二・三六九上~下)や『徹髄抄』(浄全一三・七一五下)などにおいて俱体俱用の論を用いて、三身俱体を法性とし体用不離であることを明らかにしている。
【参考】石井教道『浄土の教義と其教団』(宝文館、一九二九)、髙橋弘次『法然浄土教の諸問題』(山喜房仏書林、一九七八)、曽根宣雄「法然上人の三身同体論と三身別体論」(『髙橋弘次博士古稀記念論集 浄土学仏教学論叢』同、二〇〇四)
【参照項目】➡三身
【執筆者:曽根宣雄】