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観仏三昧

提供: 新纂浄土宗大辞典

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かんぶつざんまい/観仏三昧

観仏とは、精神を統一することによって平静な状態となり、すすんで仏の三十二相八十随形好といった身体的な特徴を心でイメージする行法であり、観想、観察観念観法ともいう。また、観仏は慧により、慧は定すなわち三昧によって完成されることから、三昧のない観仏はありえないので、正確には観仏三昧と呼称し、さらに広義では念仏三昧と同義にあつかうこともある。なお、学派や宗派の異なりによって解釈もさまざまであり、一般的には色身観(応身観)をさすことが多いが、法身観や実相観なども観仏の行法として実践される。

中国では漢訳で六観経とよばれる『観薬王薬上二菩薩経』『観弥勒菩薩上生兜率天経』『観普賢菩薩行法経』『観虚空菩薩経』『観仏三昧海経』『観無量寿経』において説かれている行として理解され、それらの中でもとくに『観仏三昧海経』と『観経』は、中国や日本の仏教にひろく影響をあたえ、観仏の実践を説く経典として知られている。十方の一切諸仏を観想の対象とする『観仏三昧海経』一には「仏父王に告ぐ、是のごとし是のごとし。未来世の中、諸の善男子善女人等および一切、もしよく至心に念を繫ぎて内に在り、端坐正受して仏の色身を観ずれば、まさに是の人の心は仏の心のごとく仏と異なることなし。煩悩にありといえども、諸悪の覆蔽ふくへいする所とならず、未来世に大法雨を雨ふらさん」(正蔵一五・六四六上)とあり、阿弥陀仏を観想の対象とする『観経』の像想観には「かの仏を想わん者は、まずまさに像を想うべし。目を閉じ目を開くにも、一つの宝像の閻浮檀金えんぶだんごんの色のごとくにして、かの華の上に坐したまうを見よ。…かくのごとき事を見ば、極めて明了なること、掌中を観るがごとくならしめよ」(聖典一・二九九/浄全一・四三)、真身観には「この想(像想観)成じおわりなば、次にまさにさらに無量寿仏の身相光明を観ずべし。阿難まさに知るべし。無量寿仏の身は、百千万億の夜摩天閻浮檀金の色のごとし。仏身の高さ…」(聖典一・三〇〇/浄全一・四三)と説かれているように、まず仏像などを前にして、その身体的な特徴を自らの心にしっかりと焼きつけ、つぎにその場で眼を閉じたり、また静かなところに場所を移して、先に心に焼きつけた仏のイメージを頭の中で何度でも繰り返して復元再生できるようにする実践行である。 『観経』では、釈尊韋提希と未来世の一切衆生に示した往生浄土の行としての十三定善観が説かれている。その宝地観には「この想成ずる時、一一にこれを観じて、極めて了了ならしめよ。…もし三昧を得れば、かの国地を見ること、了了分明なり」(聖典一・二九四/浄全一・四〇)とあり、また真身観には「ただまさに憶想して、心眼をして見せしむべし。この事を見る者は、すなわち十方一切の諸仏を見たてまつる。諸仏を見たてまつるをもっての故に、念仏三昧と名づく」(聖典一・三〇〇〜一/浄全一・四四)とあるように、対象に向かって観想(イメージ)の行を修めることによって、精神がしだいに集中して三昧を獲得し、そこではじめて仏や浄土を実際に見ることができると説いている。すなわち、観仏とは、行者意識が対象に向かって集中している状態であり、行業の過程であって(行因)、これが深まるにしたがって三昧が獲得され、そこではじめて見仏が成就する(行果)のである。

道綽は『安楽集』第一大門において、「今この観経観仏三昧をもって宗と為す。もし所観を論ずれば依正二報に過ぎず」(浄全一・六七五上正蔵四七・五上)と述べるように、『観経』は観仏三昧を宗とする経典であるとみなしている。善導は『観経疏』玄義分で、「宗旨の不同、教の大小を弁釈すとは、『維摩経』のごときは、不思議解脱を以て宗とす。『大品経』のごときは、空慧を以て宗とす。この例一に非ず。今、この『観経』は、すなわち観仏三昧を以て宗とす。また念仏三昧を以て宗とす。一心回願して、浄土往生するを体とす」(聖典二・一六六/浄全二・三下)として、観仏三昧念仏三昧を『観経』の宗とみなした。なお、狭義には仏のみを観察することであるが、広義では菩薩浄土を観想することも含まれる。また、韋提希釈尊に対して浄土往生する実践行を致請した「我に思惟を教えたまえ、我に正受を教えたまえ」の経文に対して、「〈思惟〉と言うは、すなわちこれ観の前方便、かの国の依正二報、総別の相を思想す。すなわち地観の文の中に説いて、〈如此想者名為粗見極楽国土〉と言えり。すなわち上の〈教我思惟〉の一句に合す。〈正受〉と言うは、想心すべてみ、縁慮並びに亡じて、三昧と相応するを、名づけて〈正受〉とす。すなわち地観の文の中に説いて、〈若得三昧見彼国地了了分明〉と言えり。すなわち上の〈教我正受〉の一句に合す」(聖典二・一六八/浄全二・四下)と釈しているように、善導思惟と正受をともに観察行とみなしていたのである。また善導は『観経』の観想について、諸師が提唱する唯識法身観や自性清浄仏性観を否定した。浄影寺慧遠じょうようじえおんは『観経義疏』本において観想行を真身観応身観に分けたうえで、「今ここに論ずる所は、これ応身中の麤浄信観そじょうしんかんなり」(浄全五・一七一下正蔵三七・一七三下)と述べるが、善導は「今この観門等は、ただ方を指し相を立てて、心を住めて境を取らしむ。すべて無相離念を明さず」(聖典二・二六九/浄全二・四七下)と述べて、色身観としての指方立相観を提唱している。法然は『選択集』一二に、「観仏三昧は殊勝の行なりといえども仏の本願に非ず。故に付属せず。念仏三昧はこれ仏の本願なり。故に以てこれを付属す」(聖典三・一七二/昭法全三四一)と述べ、観仏三昧をすぐれた行であるとしながらも、本願行ではないので釈尊付属しなかったと述べている。さらに『つねに仰せられける御詞』では「近来ちかごろの行人観法をなす事なかれ。仏像を観ずとも運慶康慶がつくりたる仏ほどだにも、観じあらわすべからず、極楽荘厳を観ずとも、桜梅桃李の花菓ほども、観じあらわさん事かたかるべし」(聖典六・二八一/昭法全四九四)とあるように、観想の行は難行であるとしてしりぞけている。


【参考】小沢勇貫「観仏三昧の源流」(浄土学三、一九三二)、色井秀譲「観仏三昧海経と観無量寿経」(印仏研究一三—一、一九六五)、山田明爾「観仏三昧と三十二相」(『仏教学研究』二四、一九六七)、小林尚英「善導大師の観仏三昧について」(『仏教の歴史と思想』大蔵出版、一九八五)、大南龍昇「『観仏三昧海経』の三昧思想」(『仏教学』四〇、一九九九)、福𠩤隆善「観仏系経典にみられる仏の相好—『観仏三昧海経』を中心に」(『仏教文化の基調と展開』山喜房仏書林、二〇〇一)


【参照項目】➡念仏三昧


【執筆者:齊藤隆信】