法身
提供: 新纂浄土宗大辞典
ほっしん/法身
法(真理)そのもの、あるいは法を身体とする仏身のこと。Ⓢdharma-kāyaの訳。法仏、実仏、法身仏、法性身、真身、如如仏、自性身ともいう。また自性身の原語としてはⓈsvābhāvika-kāyaなどが挙げられる。二身(法身・肉身、法身・色身、法身・生身)、三身(法身・報身・応化身)の一つ。仏の永遠性を確保するために考えられたもので、朽ちてなくなる肉体を持った仏身(色身・生身)に対して、仏が発見した法(真理)は永遠であり、その法を身体とする仏身が法身であるとする考え方。『増一阿含経』一には「釈師、世に出でて寿、極めて短し。肉体、逝くと雖も法身在り。まさに法本をして断絶せざらしむべし」(正蔵二・五四九下)とある。これは肉身とは別に永遠不滅の法身の存在を認めるものである。鳩摩羅什は『大乗大義章』上において「小乗部の者は、諸の賢聖の得る所の無漏の功徳を以て、謂く三十七品及び仏の十力、四無所畏、十八不共等を以て法身とす。また三蔵経の、この理を顕示するを以てまた法身と名づく。この故に天竺の諸国にはみな〈仏の生身無しと雖も、法身なお存す〉という。大乗部の者は謂く、一切法は無生無滅にして言語道断、心行処滅なり。無漏無為無量無辺にして涅槃の相の如し。これを法身と名づく」(正蔵四五・一二三下)と、小乗と大乗それぞれの法身に対する解釈を挙げている。また唯識思想においては三身を自性身・受用身・変化身として、法身=自性身とするが、『摂大乗論』などでは三身すべてを法身としている場合も見られる。さらに『如来蔵経』『不増不減経』『勝鬘経』等の如来蔵思想経典、『起信論』などにおいては、法身は智を含むものとする「理智不二法身」の説が立てられるようになる。このように法身は仏教思想の変遷展開にともなって、その解釈にも相違が見られるので注意が必要である。浄土教における法身の解釈を挙げると、道綽は『安楽集』第一大門において、『大乗同性経』の説(正蔵一六・六五一下)を引用し「何れか如来の法身なる、如来の真法身は、色無く、形無く、現無く、著無く、見るべからず。言説無く、住処無く、生無く、滅無し。是を真法身の義と名づく」(浄全一・六七六下)とし、また第二大門において「法身の菩提というは、いわゆる真如実相第一義空なり。自性清浄にして、体、穢染無し。理、天真に出て修成を仮らざるを、名づけて法身とす。仏道の体本なるを名づけて菩提という」(浄全一・六八〇上)としており、法身とは法そのものであるとして、智を含めない。法然は『逆修説法』四七日において「まず法身とは、これ無相甚深の理なり。一切の諸法、畢竟空寂なるを即ち法身と名づく。…所知をば法身と名づけ、能知を報身と名づく」(昭法全二五五)として、道綽と同じく法身に智を含めない、法そのものを法身とする立場を取っている。
【参考】長尾雅人「仏身論をめぐりて」(『中観と唯識』岩波書店、一九七八)、田村芳朗「法と仏の問題—仏身論を中心として」(『田村芳朗仏教学論集Ⅱ 日本仏教論』春秋社、一九九一)
【執筆者:曽和義宏】