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報身

提供: 新纂浄土宗大辞典

ほうしん/報身

菩薩の時に衆生済度本願をたて、その実現のために修行し、その報いとして成就された仏身のこと。受用身じゅゆうしんともいう。Ⓢvipāka-buddhaⓈvipāka-kāyaⓈsaṃbhoga-kāya。代表的な報身仏としては阿弥陀仏があげられるが、薬師如来報身仏である。『無量寿経』によれば、阿弥陀仏はもと国王であったが、世自在王仏説法を聞き、菩提心を起こして出家し、法蔵比丘びくとなり、一切衆生救済するために四十八願をたて、兆載永劫ちょうさいようごう修行の結果、成仏して阿弥陀仏となり極楽浄土を構えた。それ故、阿弥陀仏の仏格は報身と規定される。報身仏の思想は、菩薩思想、本生思想、過去仏・未来仏・六方仏などの多仏思想などを背景にして成立したと考えられるが、そのなかでも菩薩思想の中に説かれる本願思想に基づくところが大きい。仏を説明する際に、如去にょこ如来という語が用いられるが、如去とは「真実の世界に去っていった者」(Ⓢthatāgata→tathā+gata)、如来とは「真実の世界より来生したる者」(Ⓢtathāgata→tathā+āgata)の意である。つまり、迷妄の凡夫世界から真実の仏の世界に入ることを如去といい、真実の仏の世界から凡夫救済するために迷妄の世界にあらわれることを如来というのである。また智慧の真実が大慈悲説法となって相対的な世界にあらわし出され、それによって凡夫救済が実現されていくあり方が、方便(Ⓢupāya)といわれる。すなわち報身とは、衆生済度のための本願建立とその成就によって、仏の智慧慈悲へと展開する仏身であり、如去から如来へと展開することを意味している。Ⓢvipāka-buddhaⓈvipāka-kāyaは『入楞伽経にゅうりょうがきょう』に説かれるもので報身と訳し、Ⓢsaṃbhoga-kāyaは受用身と訳している。Ⓢvipākaは「報」で、「果報異熟」の意味であるから、仏の智慧慈悲として人間世界に具体的に成熟することになったという意味であり、「受用」とは、人間存在の世界において享け用いられるようになったとの意味である。報身法身と同様、不変性・普遍性という性格を有し、応身と同様に人格性を有している。法身は非人格的であり、応身は不変性・普遍性を有さないので、報身は両方の性格を兼ね備えた仏身ということができる。

道綽は『安楽集』上において「現在の弥陀はこれ報仏、極楽荘厳国はこれ報土なり」(浄全一・六七六上~下/正蔵四七・五下)と述べ、阿弥陀仏及び極楽浄土報身報土であるとしている。そして『大乗同性経』に基づき「浄土の中にして成仏したまうは悉くこれ報身なり。穢土の中にして成仏したまうは悉くこれ化身なり」(浄全一・六七六下正蔵四七・五下)とし、阿弥陀仏浄土において成仏した故に報身であるとしている。善導は『観経疏』玄義分において「問うて曰く、弥陀の浄国は、はたこれ報なりや、これ化なりや。答えて曰く、これ報にして化に非ず。云何が知ることを得たる。『大乗同性経』に説くがごとし、〈西方安楽阿弥陀仏は、これ報仏報土なり〉と。また『無量寿経』に云く、〈法蔵比丘世饒せにょう王仏のみもとに在って、菩薩の道を行じたまいし時、四十八願を発し、一一に願じて言く、もし我れ仏を得たらんに、十方衆生、我が名号を称して我が国に生ぜんと願じて、しも十念に至るまで、もし生ぜずんば正覚を取らじ〉と。今すでに成仏したまう、すなわちこれ酬因の身なり」(聖典二・一八二~三/浄全二・一〇下)と説いているように、阿弥陀仏法蔵菩薩本願修行とによって報われた仏であり、酬因の身(報身)であるとした。このように、道綽善導浄影寺慧遠、嘉祥寺吉蔵等の諸師が阿弥陀仏及び極楽浄土化身化土応身応土)とした論を退け、報身報土論を展開させた。特に善導は「唯報非化」の立場を強調している。

法然は『無量寿経釈』において、「報身とは、前因に報いて感得する所の身なり。…およそ万行の因に答えて万徳の果を感ずること、依因感果、華の果を結ぶが如し。業に酬いて報を招く、響の声に随うに似たり。これすなわち法蔵比丘実修の万行に酬いて、弥陀如来実証の万徳を得たまえる報身如来なり」(昭法全七八~九)と述べ、阿弥陀仏は万行に酬いて万徳の果を得た報身如来であると定義している。また、『一期物語』では、「われ浄土宗を立てる意趣は、凡夫往生を示さんがためなり。もし天台の教相によれば凡夫往生を許すに似たりと雖も浄土を判ずること至って浅薄なり。もし法相の教相によれば浄土を判ずること甚だ深なりと雖も全く凡夫往生を許さず。諸宗の談ずる所、異なると雖も、惣じて凡夫浄土に生るということを許さず。故に善導の釈義によりて浄土宗を興すとき、すなわち凡夫報土に生るということ顕るなり」(昭法全四四〇)と述べ、善導の釈義によってのみ凡夫報土往生が示されることを明らかにしている。阿弥陀仏の仏格を報身と規定することは、道綽善導法然において一貫しているが、これは経典に基づくものであり、かつ衆生済度する仏身に相応しいからである。


【参考】望月信亨『浄土教の起原及発達』(共立社、一九三〇)、石井教道『浄土の教義と其教団』(宝文館、一九二九)、山口益「如来について—特に報身の意味に関して」(『教化研究』七二、一九七四)、髙橋弘次『法然浄土教の諸問題』(山喜房仏書林、一九七八)、曽根宣雄「法然上人の阿弥陀仏観」(正大紀要九八、二〇一二)


【参照項目】➡報土受用身三身仏身論仏土論酬因感果唯報非化


【執筆者:曽根宣雄】