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異熟

提供: 新纂浄土宗大辞典

いじゅく/異熟

善・不善の行為をなすことにより時を隔てて無記の苦・楽・不苦不楽の結果が生じること。Ⓢvipākaの訳語。果報とも訳される。殺生を行ったことにより地獄に堕ちることなどがこれに該当する。衆賢『順正理論』には異熟の特徴が整理されており、因果が時間的に離れていること、因果が性質的に異なっていること、因が果を生ずるときに変異することの三点がなければならないという(正蔵二九・四二七中)。無我であり刹那滅でありながら前世の業がどのように次の世において果報をもたらすのかという異熟に関する問題意識は、無表色や相続転変差別、阿頼耶識あらやしきといった種種の業理論形成に大きな影響を与えている。異熟という作用、もしくは異熟のもととなる業を異熟因、その結果を異熟果という。また異熟により生じる法を異熟生と呼ぶ。異熟因となるものは有漏うろの善・不善の法だけであり、無記無漏むろ法は異熟因とはならない。また異熟果はかならず無覆無記であり、有情数、すなわち不共ふぐう業に限られる。異熟因の能力は能牽引と能円満の二方面があり、生まれた境涯に一生涯を引き止める引業と、一過性の出来事を引き起こす満業がそれぞれに該当する。総報と別報を生じる現象である。有部では異熟生と異熟果の指示するものはほぼ重複しているが、法相宗においては第八識のみが異熟と呼ばれ総報、前六識が別報に当たる異熟生である。この双方を合わせて異熟果とする。第八識は異熟習気じっけの力による真異熟であり、第八識から生じる前六識は二次的なものという認識である。第八地以上の菩薩は不思議変易へんにゃく生死を受けて三界を超えるものであるが、苦受もあるのでなお異熟であるという。懐感群疑論』では極楽往生異熟であり往生の業は異熟因の範疇にあると考える(浄全六・七一上)。また苦の異熟果を生じる業の力は凡夫極楽往生する際に阿弥陀仏弘誓ぐぜいの力により取り除かれるので苦が生じることはないという(浄全六・九六下)。


【参照項目】➡因果因果応報無記


【執筆者:小澤憲雄】