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慧遠

提供: 新纂浄土宗大辞典

えおん/慧遠

後趙・延熙二年(三三四)—東晋・義熙一二年(四一六)八月六日。後の浄影寺じょうようじ慧遠と区別するため、廬山ろざん慧遠または廬山寺慧遠とも称す。中国・東晋時代に活躍した僧。道安弟子であり、『般舟三昧経』に基づく念仏を修した。また同志と共に念仏実践の誓約を行った。これにより後世、いわゆる白蓮社の祖、蓮宗(中国浄土宗)の初祖として称えられることとなった。山西省北部の雁門郡楼煩県の生まれ、本姓は賈氏。一三歳のとき、許昌、洛陽に遊学して儒教の六経や老荘を学んだ。二一歳のとき、江南に渡り笵宣に師事して隠遁生活を送ろうとしたが、内乱状態であったため断念した。そのとき道安の名を知り、弟の慧持とともに道安のもとへ向かい、『般若経』の講義を受け、「儒道九流はみな糠粃こうひなるのみ」(『高僧伝正蔵五〇・三五八上)と言って、出家して道安弟子となった。その後二四歳ですでに仏典の講義を行っている。その際、『荘子』を用いて説明したところ、その聴聞者の疑問が解けたので、道安は中国古典の用語や思想で仏教を説明する「格義」に批判的であったが、慧遠に限って外典を用いることを許可したという。東晋・興寧三年(三六五)、道安とともに襄陽に移ったが、前秦・建元一五年(三七九)に、秦王苻堅によって道安長安に連れ去られた。戦乱を避けて南下する途中、廬山の秀峰に接し、また廬山西林寺に住する同門の慧永の要請で、太元九年(三八四)、廬山東林寺に入り、以後三十余年の間、戒律を遵守し、また禅観を修行しつつ廬山に留まった。僧伽提婆そうぎゃだいば廬山に招いて『阿毘曇心論』『三法度経』の訳出を依頼し、それぞれ序を著している。また出家者は国家権力の外にあるとして『沙門不敬王者論』を著した。また鳩摩羅什長安訳経していることを知ると、慧遠は手紙を送って羅什と親交を結び、大乗仏教に関して、法身や、大乗と小乗の相違などについて質問した。このときの問答をまとめたものが『大乗大義章』として現存する。著作は『出三蔵記集』によれば、上述のものも含めて「十巻五十余篇」とされている。また、元興元年(四〇二)、廬山般若台阿弥陀像前において、一二三人の同志と共に『般舟三昧経』に基づく念仏三昧を実践することを誓約した。これにより慧遠蓮宗の初祖として扱われるようになった。隋・唐代初期の道綽迦才かざい善導らは慧遠浄土教祖師として扱う姿勢はなかったが、唐中期の法照飛錫らの頃から、慧遠蓮宗の初祖として扱い始める傾向が見られ、この見解は宋代に至って定着したものと考えられる。


【資料】『出三蔵記集』一五、『高僧伝』六(共に正蔵五〇)


【参考】木村英一編『慧遠研究 遺文篇』『同 研究篇』(創文社、一九六〇・一九六二)、鎌田茂雄『中国仏教史』二(東京大学出版会、一九八三)、櫻部建「慧遠—念仏門の鼻祖—」(『浄土仏教の思想』三、講談社、一九九三)


【参照項目】➡慧遠流大乗大義章廬山蓮宗


【執筆者:曽和義宏】


北魏・神亀四年(五二三)—隋・開皇一二年(五九二)。敦煌とんこうの人。地論宗南道派に属す学僧。浄影寺じょうようじに住したことから浄影寺慧遠ともいう。一三歳で出家、二〇歳で具足戒を受け、さらに法上に師事し修学した。北周・武帝の廃仏に際して抗弁したが認められず、河南汲都の西山に隠れる。その後、隋の天下統一によって六大徳の一人として召されて長安に入り、浄影寺に住し講説し、ここで寂した。著書は五十数巻あったとされ、現存するものとして『大乗義章』二六巻をはじめ『地持論義記』一〇巻、『十地経論義記』等がある。慧遠弥勒信仰者と考えられているが、浄土教に対する学識ならびに影響力も非常に大きく、主著『大乗義章』の一九巻は「浄土義」と名付けられ、また『無量寿経』と『観経』に対して初めて注釈を施したのも慧遠である。このような注釈書、事浄土・相浄土・真浄土三土に分類した浄土の理解、九品往生人について上品を大乗、中品を小乗、下品を大乗始学とする判別などは、その後の浄土教に影響を与えた。このような理解は善導などに批判されることとなったが、中国浄土教の教理形成に大きく関わった人物である。


【資料】『続高僧伝』八


【参考】深貝慈孝『中国浄土教と浄土宗学の研究』(思文閣出版、二〇〇二)


【参照項目】➡観無量寿経義疏大乗義章浄影寺無量寿経義疏三土


【執筆者:曽和義宏】