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「仏教福祉」の版間の差分

提供: 新纂浄土宗大辞典

 
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2018年3月30日 (金) 06:32時点における最新版

ぶっきょうふくし/仏教福祉

仏教と福祉に共通する思想や理念および価値を基盤にした仏教慈善救済活動から、仏教社会事業ないし仏教社会福祉事業までの社会的な活動を包含した実践の総体そのものを指す呼称。

仏教福祉の概念生成]

仏教福祉の概念については、仏教学の視座から人文科学を踏まえた福祉思想の多くの論考があり、社会福祉学では社会科学を中核にした実践科学による論旨で提示されてきた。学術的には、仏教と福祉の統合を期待して関連科学の成果から包括的概念が生み出されてきた。すなわち、仏教の原理から実践までの拡がりをもって、望ましい人間観世界観を得ようと求めてきた一方、福祉(welfare)では、人間が健康で幸福な状態(well-being)の達成を目指してきた。そうした目的概念や実践概念の統合を期待し、双方の立場から仏教福祉という概念が生成されてきた。

仏教福祉仏教社会福祉]

仏教福祉は、仏教思想を基盤にした福祉活動の総体を指しているが、仏教者の公益・教化活動をも含むとともに、ボランティア活動から専門的な支援活動までを支えてきた仏教福祉思想や理念および価値観を基底に置くため、社会的な認識との関係を明確化すべき課題がある。その一方、仏教社会福祉は、歴史的・社会的に規定された社会福祉問題・課題に対応する民間社会福祉事業における仏教との関係を深め、仏教精神を主体的な契機として専門的・実践的なソーシャルワークの可能性・固有性を追求することである。仏教社会福祉におけるソーシャルワーク実践を国際基準の概念に準じて再定義すれば、仏教ソーシャルワーク(buddhist social work)と置き換えられ、仏教者による人間と社会(social)・環境との接合場面(interface)に焦点を当てた専門的な介入による支援ということになる。その仏教ソーシャルワークにおける専門性とは、仏教的価値・倫理が土台となる。

法然浄土教仏教福祉思想]

仏教福祉に通底する法然浄土教の福祉思想は、「浄土宗二十一世紀劈頭宣言」すなわち「愚者の自覚を」「家庭にみ仏の光を」「社会に慈しみを」「世界共生ともいきを」の現代的提言に集約される。まずは、自らは罪悪生死の凡夫であるとの「愚者の自覚」をもち、阿弥陀仏平等慈悲により「家庭にみ仏の光」をいただき、称名念仏行による、衆生と共々の往生を願いつつ、「社会への慈しみ」を実践し、「世界共生」を求めることにある。法然による念仏往生教化は、貧富や階級の格差を超え、女性の往生を説く『室の津の遊女に示されける御詞』に典型をみる。さらには、不殺生戒を堅持して法然自身は、罪を犯した人びとにも隔てなく浄土往生を勧めるとともに、飢餓に苦しむ人びとに飲食を施与した。こうした福祉思想と行動は、近世における捨世派僧らによる、乞食・癩者・遊女等への慈善救済活動の思想を経て近代へと引き継がれた。

浄土宗仏教福祉

近代における浄土宗では、多くの仏教教団や社会的な危機状況に対する社会的な改革に向けた「仏教社会事業」を推進した渡辺海旭矢吹慶輝長谷川良信が牽引役となった。渡辺による「浄土宗労働共済会」の創設を契機に一宗による支援組織として「浄土宗報恩明照会」を設立し、各教区社会事業協会を配して「一寺院一事業」運動が大正期から昭和戦前期まで活発に展開された。戦後は、開宗八〇〇年を機に浄土宗が設立母体となって沖縄での社会福祉法人・袋中園の創設や浄土宗社会福祉協会の結成など、多くの仏教福祉に係る公益・教化団体が結成ないし再編された。その後、八〇〇年大遠忌を期して浄土宗社会福祉推進室による新たな展開が図られている。


【参考】日本仏教社会福祉学会編『仏教社会福祉辞典』(法蔵館、二〇〇六)、国際ソーシャルワーク学校連盟・国際ソーシャルワーカー連盟『ソーシャルワークの定義、倫理、教育・養成に関する世界基準』(相川書房、二〇〇九)、吉田久一『日本社会福祉思想史』(川島書店、一九八九)、長谷川匡俊『近世の念仏聖無能と民衆』(吉川弘文館、二〇〇三)、浄土宗総合研究所仏教福祉研究会編『浄土宗の教えと福祉実践』(ノンブル社、二〇一二)


【参照項目】➡浄土宗二十一世紀劈頭宣言浄土宗労働共済会


【執筆者:石川到覚】


浄土宗総合研究所が発行した機関誌の一つ。平成九年(一九九七)三月に第一号が創刊され、同二五年二月発行の一五号をもって廃刊となった。内容は同七年度より発足した研究所の「仏教福祉共同研究班」企画のシンポジウムの記録、論文、調査報告、書評などを掲載。編集は同研究班が担当し、年一回発行された。現代の社会的問題に対する研究所の取り組みの一つ。本誌は佛教大学仏教社会事業研究所が昭和五〇年(一九七五)三月に創刊した同名の機関誌が平成三年(一九九一)三月、一七号をもって終刊した後を受け継ぐ役割もあった。


【執筆者:長谷川匡俊】