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梶宝順

提供: 新纂浄土宗大辞典

かじほうじゅん/梶宝順

元治元年(一八六四)—大正九年(一九二〇)一月一五日。幸蓮社仙誉仁阿知足。文書伝道と出版事業の功労者。三河国額田郡六名村に岡崎本多藩の家老梶董次郎の長男として生まれる。明治一一年(一八七八)の春に父を喪い、同年秋に西岸寺(愛知県岡崎市康生通)の高木隆宝について得度。同一三年黒谷金戒光明寺において獅子吼観定より宗戒両脈璽書相承した。同一八年八月、福田行誡・釈雲照などと共に能潤会を結成して『能潤会雑誌』(同二一年に『能潤新報』と改題)を刊行し、仏教の時代性を開発しようとした。宝順はさらに同二二年に同誌を『仏教』と改名、古河老川ろうせんが主筆となり、宝順は経営にあたった。この雑誌は新仏教運動を促進し、進歩的な雑誌として定評があった。明治一九年(一八八六)浅草吉野町貞巌寺(のち東京都葛飾区立石に移転)の住職となり、自坊に経世書院をつくり、多数の単行本を発行したなかに、『仏教小説読切物語連夜説教』という角張入道・熊谷直実を取り扱った仏教的色彩をもつ通俗小説もあった。同三〇年仏教少年教会を設立して少年少女の宗教的感化に努めた。同三一年九月増上寺伝道機関紙『東光』を発行、同三二年には『行誡上人全集』を出版した。同三三年一二月浅草山之宿九品寺(台東区花川戸)に転住した。同三五年八月浄土宗における最初の仏式結婚式となる正憶院藤田良信仏教式婚儀を挙行。同月、来馬琢道と原青民とともに仏教音楽会を創設して仏教唱歌の普及に努めた。同四一年七月には代表的著作となる『法然上人行状画図・仏説浄土三部聖典』を刊行、宗門文化における一代の功績となった。同四二年宗議会議員となり、七〇〇年御忌当時は第一教区北部伝道隊長として活躍した。大正六年(一九一七)一月九品寺を辞し、小田原常光寺に転住したが、同九年一月一五日遷化。世寿五七歳。望月信道は宗門文化の創始先駆者とその業績をたたえた(『浄土週報』二三八八~九一)。著書に『行誡老和上遺稿』(一八九〇)などがある。


【参考】大橋俊雄「近代高僧伝 梶宝順」(『浄土』通号二八八、一九六三年八月号)


【執筆者:西城宗隆】