操作

山崎弁栄

提供: 新纂浄土宗大辞典

やまざきべんねい/山崎弁栄

安政六年(一八五九)二月二〇日—大正九年(一九二〇)一二月四日。如来光明主義の主唱者、仏陀禅那と号す。千葉県東葛飾郡沼南町鷲谷(現・柏市)の農家山崎嘉平・なをの長男、幼名は啓之介。山崎家は関東檀林東漸寺末寺医王寺の檀家で、父は念仏嘉平と言われ、念仏を怠らない篤信者であった。幼少にして阿弥陀三尊を空中に想見するという宗教情操に恵まれていた。二一歳の一一月に医王寺において東漸寺大谷大康を師として得度し、弁栄と改名。大康のもとで作務の合間に念仏と経典読書に励み、明治一四年(一八八一)に東京遊学し大谷良胤と卍山実弁について宗乗余乗を修学した。同一五年夏に、二ヶ月間筑波山に入り口称念仏三昧を成し遂げ、「弥陀身心遍法界 衆生念仏仏還念 一心専念能所亡 果満覚王独了了」の偈を残している。その年の一一月に東漸寺において大康から宗戒両脈相承し、真誉を授かった。同一六年に埼玉県飯島の宗円寺で大蔵経の読破に専念するおり、同一七年五月に師匠大康の遷化にあたり帰山し不臥百日の報恩別時を修し終えて、再び大蔵経読破の人となり、ついに同一八年六月に読了し帰山。ほどなく、大康の五香(松戸市)への善光寺創建の遺志を継いで、五香の説経所へ移住し、書画の染筆や同信者の講の結成などによって善光寺創建に邁進する。この間、浄土宗本校の新築基金勧募に貢献したが、大康の七回忌にあたり善光寺創建を成就した。同二七年一二月にはインド仏跡参拝のために横浜を出航し翌年三月に神戸に帰国した。これ以後、自ら仏陀禅那の号を用いることが多くなった。近畿・山陰・東海・関東への伝道の旅を続けながら、同三〇年七月には絵解きによって『阿弥陀経』を訓読し冠註を加えた『訓読阿弥陀経図会』(善導の「発願文」・法然の「一枚起請文」等付録)を刊行し、施本配布した。同三三年には肋膜炎・肺炎の病後静養のため鎌倉に滞在したおり、『浄土教報』主筆の原青民と法談に親しんだ。同三五年一月には『浄土教報』第四七一号に「無量寿光明歎徳文及要解」を掲載、同三七年には原青民発行になる『仏教要理問答』を発刊した。前者は、後に体系づけられる十二光体系の方向を示唆し、後者は後の『如来光明礼拝儀』の第一原型と言える。それ以後、「如来十二光和偈」「如来三身讃歌」「一心十界の頌」「八相応化の頌」「讃誦要解」そして同四三年の「心の光」などを続刊しつつ各地への伝道に挺身した。この頃には、千葉県松戸に仏教心光教会が形成され、十二光を両方六顆ずつに配した一連の念珠を創案し「念珠の説あかし」を印行配布、同四五年には群馬県高崎に清き友の会が成立し、これは大正時代に入って成立する光明会の前身とされる。

大正元年(一九一二)三月に筑後善導寺宗祖七〇〇年遠忌法会に出講し、はじめて九州方面に出向き約三ヶ月滞在した。この頃の書簡に「仏陀禅那は光明主義の預言者である」とある。同二年二月に福岡県宗像郡福間大善寺の東筑浄土宗寺院教学講習会で一週間にわたり「浄土哲学」を、折尾の正願寺で「自覚の曙光」を、若松の善念寺宗祖法然和歌一二首を用いた「宗祖の皮髄」を講じ、秋に帰京した。この年に笹本戒浄が入門している。同三年春に新潟教区講習会で「浄土教義」を講じ八月には仏教心光教会から発行、また「如来光明会趣意書」を全国に配布、次いで光明主義を概説した代表的文献とも言える『大霊の光』を刊行した。同四年春に『如来光明礼拝式』、翌年に『如来光明礼拝儀』二〇万部が刊行された(晩年に改定箇所を指示して示寂)。同五年六月に知恩院での教学高等講習会において宗祖和歌を中心にして「宗祖の皮髄」を講義し、総本山知恩院法教科の要請で『宗祖の皮髄』として出版された。翌年三月に『永生の光』を刊行し、七月に釜山に渡り朝鮮・満州を伝道し、九月には知恩院伝道交話会刊『元祖大師御法語講話集』第二六章の光明摂取の章を執筆、一〇月には大阪教区一心寺での教区講習会で「弥陀教義」を講じた。同六年三月に知恩院勢至堂別時念仏会を開催、存命中は毎年継続し、死後も同一二年まで続けられた。同七年七月に神奈川県当麻(現・相模原市)の時宗本山無量光寺の再建のために六一世に推挙され入山した。同八年一〇月一六日より五日間、広島県佐伯郡廿日市町(現・廿日市市)潮音寺主催の念仏三昧会で「念仏道三十七道品」を講じ、笹本戒浄熊野宗純藤本浄本、丹羽円浄、橋爪実誠その他の諸師が参集し光明会最後の大説法と言われる。同年一一月に在世中の唯一の機関紙「みおやのひかり」第一巻第一号が光明会松戸教会所より発行され、光明主義伝道の基地および発信誌となった。同九年には法主を務める無量光寺境内光明主義伝道者養成と地方青年の宗教情操教育を目指して光明学園を創設した(現・光明学園相模原高校・幼稚園)。同年一一月新潟県柏崎市極楽寺別時念仏三昧会指導中に発病し、一二月四日に示寂。その伝道の生涯は、宗祖法然念仏精神を現代に復興し生かすことにあった。高弟に大谷仙界笹本戒浄田中木叉・中川弘道・中川察道・藤本浄本などがいる。


【参考】山崎弁誡『弁栄上人の片影』(坂入書店、一九二九)、田中木叉『日本の光—山崎弁栄上人伝—』(光明修養会、一九三六)、山本空外『弁栄聖者の人格と宗教』(大東出版社、一九三六)、藤堂恭俊『弁栄聖者』(光明会連合本部、一九五九)、山本空外校訂編集『弁栄上人書簡集』(光明修養会、一九六九)


【参照項目】➡光明会


【執筆者:藤本淨彦】