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一心寺

提供: 新纂浄土宗大辞典

いっしんじ/一心寺

大阪市天王寺区逢阪。坂松山高岳院。大阪教区№一三。法然上人二十五霊場第七番。文治元年(一一八五)法然により、四天王寺西門辺の荒陵あらはかと呼ばれた台地に一草庵が結ばれて荒陵新別所と名付けられた。さらにこの地で法然後白河法皇が共に日想観観法を修した故事をもって当寺の開基と伝えている。中興の三一世了道は徳川家康帰依を受け、互いに親交あって、元和元年(一六一五)大坂冬・夏の陣の際には、茶臼山一帯、特に当寺一帯が本陣とされた。夏の陣の後、豊臣方戦没将士多数を寺内に葬る一方、徳川家の庇護によって大いに興隆、江戸末期には、五〇世顕興のとき、一般檀信徒からの喜捨を募って伽藍を再建した。五一世顕秀が安政三年(一八五六)に始めた常施餓鬼法要は宗旨を問わないもので、一般庶民の納骨、数千を数える墓碑とともに、当寺の名声を近畿一円に高めることとなった。明治二〇年(一八八七)に約五万体の納骨から骨仏が造立され、以来一〇年に一度造立されている。昭和二〇年(一九四五)戦火による焼失のため、納骨堂には戦後造立したもののみが安置されている。彼岸会など、骨仏への参詣者は数万人を超える。境内には種々の行事を開催できる一心寺シアターを備え、文化活動の発信地としても知られる。法然自筆の署名が記された「一行一筆阿弥陀経」(宗宝)、古礀こかん筆『一心寺縁起』などを所蔵。【図版】巻末付録


【参照項目】➡一行一筆阿弥陀経・般若心経法然上人二十五霊場


【執筆者:上田千年】