白旗派
提供: 新纂浄土宗大辞典
しらはたは/白旗派
良暁の門弟一派のこと。白旗は神奈川県鎌倉市西御門あたりにあったとされる地名。良暁がここで門弟を育成し、隠棲したことから、その流派に連なる人々を称した。良暁は良忠に師事したが直弟子は多くはなかった。しかし室町時代以降、法流を継承する常陸国法然寺開山蓮勝と弟子の瓜連常福寺開山了実は佐竹氏の庇護をうけて勢力を拡大し、とくに、その門弟の聖冏は、鎌倉光明寺三世定慧にも従って白旗派の教義を大成させた。さらに、聖冏は宗脈・戒脈の相承を形にあらわし(『五重相伝』)、一派相伝の軌範(『白旗式状』)を制定するなど、今日の浄土宗の儀軌を確定させた。飯沼弘経寺開山の良肇は、聖冏に師事し了暁に弘経寺を譲っている。了暁はこれを受けて、珠琳、愚薩、訓公、酉冏等の多くの弟子を養成した。同じく聖冏の弟子の聖聡は芝増上寺を開山した。この弘経寺勢力が後世白旗派の本流として発展する。酉冏に弘経寺を譲った了暁は、弟子訓公と三河に下り、御津大運寺(現・大恩寺)を創建した。白旗派が徳川氏を外護者とした歴史的意味は大きかった。明応二年(一四九三)、了暁は後土御門天皇から紫衣を勅許され、大恩寺二世訓公は知恩院二四世へと進む。聖聡の弟子の慶竺も嘉吉二年(一四四二)に百万遍知恩寺一九世住持として入寺し、後花園天皇の父伏見宮貞成親王との親交も見られる(『看聞日記』)。慶竺はその後知恩院二一世へと転出し、知恩寺は、聖聡の孫弟子の良敏が二〇世、良敏の弟子聖然が二一世となる。また、慶竺の後の知恩院は了暁の弟子珠琳が二二世となり、その後は、愚底、訓公、存牛と住持を継承した。愚底はこれ以前に松平親忠の要請で三河国大樹寺を開山、訓公は岩津信光明寺二世だった。存牛は信光明寺開山存冏の弟子であり松平親忠の子息といわれている。このように、応仁の乱後、白旗派の僧侶の手によって再興された知恩院は浄土宗本寺としての地位を確立させることができた。そして彼らは三河における徳川氏と密接に結びついて展開した。その結果、やがて徳川氏が政権を握ると、白旗派が浄土宗教団の形成にも中心的な役割を果たすに至った。
【資料】『法水分流記』、『白旗式状』(『伝灯輯要』上)、『鎮西宗要本末口伝鈔』
【執筆者:小此木輝之】