源智
提供: 新纂浄土宗大辞典
げんち/源智
寿永二年(一一八三)—暦仁元年(一二三八)一二月一二日。勢観房。法然の晩年に常随した門弟。平師盛の子といわれる。源智は建久六年(一一九五)一三歳のときに法然のもとに送られるが、はじめ天台座主慈円のもとで出家をとげた。ほどなく法然の室に入ると初歩の教導は真観房感西が受け持ち、勢観房の号は真観にちなむとされる。源智は感西が正治二年(一二〇〇)四八歳で寂すまで約六年間師事し、臨終に際し形見の要文を請いこれを得ている。元久元年(一二〇四)の『七箇条制誡』には五番目に自署している。さらに建永二年(一二〇七)、建永の法難の法然流罪では、紀氏や葉室氏と姻戚関係を持つ源智は、その行動力で救済に奔走したことが考えられている。すなわち俗縁の一人中納言葉室光親は、九条兼実から法然の恩免を懇請され、それを後鳥羽上皇に再三進言している。そのせいか法然は同年一二月八日に一年足らずで摂津の勝尾寺まで戻り、さらに建暦元年(一二一一)光親の奉行によって帰洛の宣旨をうけている。同二年正月二三日には、臨終の法然から『一枚起請文』を授かっていて、中陰の回向では、五七日に隆寛の導師に対し源智は檀那の役割を果たしている。さらに同年一二月二四日、師法然に対する報恩謝徳のため、三尺の阿弥陀如来像の胎内に造立願文と、約四万六千人以上の結縁者の交名を納め、勧進聖としての才能をいかんなく発揮した。なおこの願文から秘妙の存在が明らかとなった。この秘妙は源智の妻である可能性が高く、その秘妙の母親は、石清水八幡宮の祠官の家系の紀成清の娘であり、葉室光親の妾である。また法然没後、道具・本尊・房舎・聖教を相承し、その本尊とされるものが、京都の西福寺にある。後年は法然の師皇円の延暦寺功徳院の里坊であった加茂の功徳院に住した。この地はささき野、紫野と呼ばれた一帯で、そのため源智の門下蓮寂、浄信らを紫野門徒とも称している。嘉禎三年(一二三七)九月二一日付で聖光に書状を送っているが、それがのちの京都東山赤築地における鎮西流と勢観流の流儀の合流につながっていく。また法然の二三回忌に当たる文暦元年(一二三四)には知恩院の廟堂、堂舎を再建し、四条天皇から華頂山大谷寺知恩教院の額を賜ったとされ、知恩院、百万遍知恩寺各二世、金戒光明寺前二世に列せられている。醍醐本『法然上人伝記』は源智系の伝記で『選択要決』は著書ともされるが断定はできない。暦仁元年一二月一二日五六歳で寂す。
【資料】『阿弥陀如来造立願文』(『玉桂寺阿弥陀如来立像胎内文書調査報告書』)、東京大学史料編纂所編『大日本史料』五—一二・暦仁元年一二月一二日条、『尊卑分脈』一(『新訂増補国史大系』五八)、『四十八巻伝』四五(聖典六)
【参考】三田全信『成立史的法然上人諸伝の研究』(平楽寺書店、一九七六)、野村恒道「勢観房源智の親類紀氏について」(『三康文化研究所年報』一六・一七合、一九八五)
【参照項目】➡一枚起請文、源智上人造立阿弥陀如来立像
【執筆者:野村恒道】