きおく/貴屋
慶長四年(一五九九)—万治三年(一六六〇)一月二一日。森蓮社遵誉。字は直爾。増上寺二三世。生国・姓氏は不詳。鏑木(千葉県旭市)光明寺で出家、のち下谷幡随院了聞の門下となり、ついで太田大光院無絃に師事。幡随院四世、大光院六世、小石川伝通院七世を経て、承応元年(一六五二)増上寺二三世に就任。明暦二年(一六五六)参内して知恩院新門跡尊光法親王の増上寺留学を奏請。また京都大原魚山から声明師恵隆らを招請し、増上寺声明の起立をはかった。
【資料】『三縁山志』(浄全一九)
【参考】『大本山増上寺史・本文編』(大本山増上寺、一九九九)
【執筆者:中野真理子】