親鸞
提供: 新纂浄土宗大辞典
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しんらん/親鸞
承安三年(一一七三)—弘長二年(一二六二)一一月二八日。真宗の開祖。父は日野有範、母は源義親の娘吉光女、幼名は松若丸と伝えられる。『御伝鈔』によれば、九歳のときに青蓮院で得度し、範宴と名のったと述べられる。師は慈円であった。以後、比叡山で二〇年間修行した。妻恵信尼の消息によれば、常行三昧堂の堂僧であったと考えられる。二九歳のとき六角堂に参籠し、九五日目の暁に聖徳太子の夢告を受け、吉水の草庵に法然を訪ねて専修念仏に帰依した。恵信尼はその手紙で、一〇〇日間吉水に通い続けたことを述べている。親鸞自らは「雑行を捨てて、本願に帰す」(『教行信証』「化巻」)と述べている。元久元年(一二〇四)、法然が比叡山に提出した『七箇条制誡』には、「僧綽空」と署名している。翌二年、親鸞三三歳のときに『選択集』の書写を許され、さらに法然の真影の図画を許された。夢告により綽空の名より善信と改めたことが知られる(『六要鈔』)。
建永二年(承元元年〔一二〇七〕)、念仏停止令が下り、法然は四国へ、親鸞は越後に流罪、同輩の住蓮、安楽は、死罪となった。親鸞は還俗させられ藤井善信の俗名が与えられた。親鸞自らは、「僧に非ず、俗に非ず」とし、愚禿親鸞と名のった(『教行信証』「化巻」後序、『歎異抄』後序)。越後にいる間に、その地の豪族三善為則(為教)の娘、恵信尼と結婚したとみられる(恵信尼とは、すでに京都で結婚していたとの説も提示されている)。親鸞は、四〇歳のとき赦免され、建保二年(一二一四)頃、親鸞四二歳、家族と共に関東に移住した。
先述の恵信尼の手紙によれば、移住の折に飢饉が続き、三部経を千回読誦することを思い立ったが、これを思い止まり、さらに寛喜三年(一二三一)親鸞五九歳、病床で一七、八年前のことを夢中に見て、自らの内心の想いの深さを語っている。関東での伝道は、稲田(茨城県笠間市)を中心に各地におよび、熱心な念仏のすすめがなされた。京都への帰洛は六二歳頃と言われる。帰洛の理由は明示されていないが、主著『教行信証』の完成にあったとも考えられる。膨大な資料を用いて述べられる同書は、従来は元仁元年(一二二四)親鸞五二歳完成とみられていたが、五二歳頃より起筆され、七五歳で一応完成し、さらに八五、六歳頃まで、加筆・訂正がなされたとみる説もある。
晩年には、関東の門弟の間に異義の問題が生じた。法然の専修念仏を継承しながら、「ただ念仏」をこの身にうけるためには、信心正因として信心の内実をつめていくので、さまざまな見解が提示され、異説を生ずることになる。これを正すために息男の慈信房善鸞を遣わしたが、かえって混乱を生じて、建長八年(一二五六)、善鸞を義絶した。善鸞宛と門弟の性信宛の義絶状が残されている。悲痛な書状であるが、書写されたものであるので、近年善鸞があまりに悪いと見られているのではないかと、善鸞事件を見直すべきとの学説も提示されている。親鸞は弘長二年九〇歳で寂。
著書は数多くあり主著『教行信証』の他に、『和讃』が五百数十首あり、『浄土和讃』『高僧和讃』『正像末和讃』に収められる。その他『一念多念文意』や『唯信鈔文意』などもあり、八八歳まで筆をとり続けていた。法然の言行論『西方指南鈔』(六巻)も親鸞の真筆で伝えられている(高田専修寺蔵)。『教行信証』後序には、念仏弾圧に対する厳しい批判、流罪の記録、『選択集』の書写を許された感激などが述べられている。どこまでも法然教義を継承しながら、法然に問いつづけ自らの深い罪業性(人間すべてがかかえる自己中心性)を見きわめて、親鸞独自の「如来よりすべては、回向される」「逆謗、闡提の救い」「さとりと救いの問題」「信と疑の問題」の教義を展開したのである。
【執筆者:浅井成海】