寛永一五年(一六三八)—享保五年(一七二〇)九月一三日。然蓮社湛誉十即生。増上寺三五世。生国は江戸麻布。氏姓は朝倉氏。増上寺学頭、江戸崎大念寺一一世、太田大光院二一世、小石川伝通院一六世を経て、宝永元年(一七〇四)一一月増上寺三五世に就任。学寮法度・御霊屋定書・門末定書など多くの規則を定め、門末・寺内の統制に尽力。しかし在任中六度の出火の責任をとり、正徳元年(一七一一)一二月麻布一本松に隠退した。
【資料】『三縁山志』(浄全一九)、『増上寺史料集』一(大本山増上寺、一九八三)
【参考】『大本山増上寺史』本文編(大本山増上寺、一九九九)
【執筆者:中野真理子】