御霊屋
提供: 新纂浄土宗大辞典
おたまや/御霊屋
貴人の位牌や霊を祀る建物などのこと。「おたまや」は近世からの言い方で、古代より「たまや」として、廟、霊屋、魄舎などの表記がある。古くは死者を埋葬するまで安置した喪屋や殯宮、あるいは埋墓の上にこしらえる簡単な祭祀施設などもたまやとされる。また廟は一般に墓所であるが、八世紀以降実在した人物などの霊を祀る場合、神社でも廟とすることがあり、神功皇后を祀る香椎廟、藤原鎌足の多武峰、菅原道真の北野聖廟などが知られる。さらに、豊臣秀吉を祀った豊国廟は後に破却されたが、高台寺では霊屋として今も秀吉と北政所のねねをまつる。徳川氏の霊廟が各地に造営される江戸時代初期から中期にかけては霊廟建築の全盛期を迎えたが、その初期の代表的なものは増上寺に造られた二代将軍秀忠の台徳院廟である。この霊廟の中心施設である本殿と拝殿は細長い相の間でつながれているが、これと同様に、徳川家康の霊を祀る東照宮のうち久能山や日光のものも石の間でつなぐいわゆる権現造である。この後この増上寺や上野の寛永寺に徳川歴代将軍の霊廟が造営されたが、正徳三年(一七一三)九月のお触れにより、それまで御仏殿・御堂と呼んできた本殿拝殿などを御霊屋と称し、御廟とよんできた墓塔については御宝塔と称すべしとなった(『有章院殿御実紀』五、正徳三年九月一四日条)。ただしこれは将軍のみであって、奥方などの御霊屋相当施設は霊牌所とされている。さらにその後間もない享保五年(一七二〇)には御霊屋建立禁止令が出され、新しいものは造営されなかった(『有徳院殿御実紀』一一、享保五年八月三日条)。なお、江戸時代後期、浄土宗の檀家でもあった本居宣長は随筆集『玉勝間』(寛政七年〔一七九五〕以降刊行)に、「『栄華物語』(平安時代作)に〈鳥部野の南方にたまやというものをつくった〉とある。今の世に御霊屋というのがこのたまやであるが、たまやと今の御霊屋はいささか違いがある」と記している。
【参考】井之口章次『日本の葬式』(ちくま学芸文庫、二〇〇二)
【執筆者:野村恒道】