専修正行・雑修雑行
提供: 新纂浄土宗大辞典
せんじゅしょうぎょう・ざっしゅぞうぎょう/専修正行・雑修雑行
阿弥陀仏の極楽浄土へ往生するための行である正行とそれを専ら修めることを専修正行といい、それ以外の行である雑行と諸々の行を交えて修することを雑修雑行という。法然は『選択集』二において「すべからく雑を捨てて専を修すべし。あに百即百生の専修正行を捨てて、堅く千中無一の雑修雑行を執せんや」(聖典三・一一三/昭法全三一七)と説いている。善導は『観経疏』散善義において、五種正行と五種雑行を説き、雑行ではなく正行によるべきことを説いている(聖典二・二九四/浄全二・五八下)。さらに、善導『往生礼讃』前序において、「若し能く上の如く念念相続し畢命を期と為す者は十は即ち十生じ、百は即ち百生ず」として専修は十即十生・百即百生であり、それに対して「百の時、希に一二を得」として希ながら雑修による往生も明かしている(浄全四・三五六下)。これについて懐感は『群疑論』四において、雑修人は懈慢国に往生すると説いている(浄全六・四九下)。また、良忠の『決疑鈔』二には「『礼讃』の文を看るに、正行は即ち専修、雑行は即ち雑修なり」(浄全七・二二四上)とあり、専修と正行ならびに雑修と雑行の意味の相違について、道綽や源信の釈に従えば異なったものとも捉えられるが、善導、法然の釈義においてはそれぞれ同じであるとしている。
【参考】石井教道『選択集全講』(平楽寺書店、一九五九)
【参照項目】➡五種正行、五番相対、十三得失、正行・雑行、専修・雑修
【執筆者:兼岩和広】