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諸行往生

提供: 新纂浄土宗大辞典

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しょぎょうおうじょう/諸行往生

口称念仏以外の行法で往生を遂げること。余行往生・万行往生ともいう。念仏往生の対となることば。『無量寿経』に説かれる第十九来迎引接願・第二十係念定生願での諸行(諸功徳・諸徳本)や三輩段での念仏以外の行業による往生や、『観経』に念仏諸行が並説されていることなどに基づいて、浄土各門流の議論の対象となっている。法然は『選択集』二において道綽懐感の説をあげ、極楽往生念仏往生諸行往生の二通りに分類し、念仏往生を「百即百生」の行として採用し、諸行往生を「千中無一」として退けている。『同』四においては念仏諸行の関係を、廃立助正傍正の三義でとらえ、善導の意に基づいて廃立を正と規定している。著作として先行する『無量寿経釈』においては念仏諸行による往生を、但念仏往生助念仏往生・但諸行往生の三つに分け、但念仏往生を正とし、残りの二つを傍と規定している。前者は仏意に則して、後者は機解に則して区分していると考えられる。『一期物語』に遺る御法語では、諸行往生を認めたとしても念仏往生の障りとはならないはずだとの論難に対し「経すでに一向専念無量寿仏と云う。故に釈に一向念阿弥陀仏と云う。経釈を離れて私に此の義を立てなば、誠に責むる所去り難し。此の難を致さんと欲さば、先ず釈尊を謗ずべし。次に善導を謗ずべし。そのとが全く我が身の上に非ず」(昭法全四四一)と一向専念こそが経釈に則した往生行であることを力説している。法然門下の長西は、念仏諸行の両者に優劣は無いと主張する諸行本願義を説き、隆寛は諸行往生を認めるが報土ではなく辺地に生ずるとしている。証空西山義では諸行往生を認めない念仏一類往生諸行不生義を唱えており、真宗では諸行回向をもちいることで第十九願に乗じて往生は可能とするが、それはあくまで方便化土への往生となるとしている。良忠は、『決疑鈔』二において、摂機の願に乗ずることで諸行往生行とはなるが、「諸余の行は本願に乗ずと雖も本願の行に非ず」(浄全七・二三四下~五上)と述べ、あくまで諸行は非本願であると解している。


【参照項目】➡念仏往生諸行本願義


【執筆者:渋谷康悦】