見仏三昧
提供: 新纂浄土宗大辞典
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けんぶつざんまい/見仏三昧
三昧という精神集中の中で仏を目のあたりにすること。一般には観仏三昧・念仏三昧・般舟三昧の行によって精神が集中したところに仏が現れることをいう。『般舟三昧経』上に「この三昧は仏力の成す所なり。仏の威神を持ちて三昧中に立つは三事あり。仏の威神力を持し、仏の三昧力を持し、本功徳力を持す。この三事を用ての故に仏を見るを得」(正蔵一三・九〇五下)とあるように、見仏は三つの要素が和合することで成就すると説いている。また『大乗義章』中には、この『般舟三昧経』をうけて廬山慧遠が念仏三昧について鳩摩羅什に問うと、「見仏三昧に三種あり。一に菩薩或いは天眼天耳を得て、或いは十方の仏の所に飛到し、仏を見て難問して諸の疑網を断ず。二には神通なしと雖も、常に阿弥陀等の現在諸仏を修念し、心を一処に住せしめて即ち仏を見るを得、疑う所を請問す。三に念仏を学習し、或いは欲を離れるを以て、或いは欲を離れずして、或いは仏像を見、或いは生身を見、或いは過去未来現在の諸仏を見る。この三種の定はみな念仏三昧と名づく。その実は同じからず、上は神通を得て十方の仏を見、中は未だ神通を得ざれども、般舟三昧力を以ての故にまた十方の諸仏を見、余は最下なり。統べて念仏三昧と名づく」(『慧遠研究』遺文篇三五)と述べるように、鳩摩羅什は念仏三昧を三種に分けて慧遠からの質問に応じている。また『観経』宝地観には、「この想成ずる時、一一にこれを観じて、極めて了了ならしめよ。目を閉じ目を開くにも、散失せしめざれ。ただ睡時を除いて、恒にこの事を憶え。かくのごとく想するを、名づけてほぼ極楽国の地を見るとす。もし三昧を得れば、かの国地を見ること、了了分明なり」(聖典一・二九四/浄全一・四〇)とあり、また同経の流通分でも「汝まさに受持して、忘失せしむることなかるべし。この三昧を行ぜん者は、現身に、無量寿仏および二大士を見ることを得ん」(聖典一・三一四/浄全一・五一)とあるように、観仏三昧を発得した果報として浄土や仏を見ることができると説かれている。なお、善導は『観念法門』で『観仏三昧海経』『観経』『般舟三昧経』を引きながら、観仏三昧法と念仏三昧法における見仏(見仏三昧)を説いている。さらに五種増上縁義においても往生行を修める者の利益として見仏三昧増上縁を示している。
【執筆者:齊藤隆信】