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大野法道

提供: 新纂浄土宗大辞典

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おおのほうどう/大野法道

明治一六年(一八八三)九月三日—昭和六〇年(一九八五)一一月二八日。貫蓮社徹誉通阿性相陽炎しょうそうようえん増上寺三世。三重県桑名郡益生村(現・桑名市)に松谷甚右衛門の長男(幼名貞吉)として生まれた。明治三〇年(一八九七)松阪市樹敬じゅきょう大野法音に養子入籍し、法道改名して得度浄土宗学第四教校浄土宗高等学院を卒業し、同四〇年八月、小石川伝通院において勤息義城ごんそくぎじょうより宗戒両脈璽書相承した。同四二年三月に宗教大学研究科を卒業、同四三年五月より内地留学生として研鑽を重ね、同四四年五月、天台宗西部大学講師に就任。大正五年(一九一六)宗教大学教授、同一五年大正大学教授、昭和一五年(一九四〇)駒沢大学講師などを歴任し、同二〇年一一月、大正大学授与としては第一号となる文学博士の学位を得た。同二一年三月、GHQの請求により「浄土宗教義」を文部省に提出(望月信亨校閲・石井真峰英訳)。また同三年一〇月には小石川智願寺に董住、同二五年五月には増上寺執事長に就任した。同二八年三月に勧学。同二九年六月、鎌倉光明寺晋董(一〇八世)、同三一年三月に大僧正に任ぜられた。同三七年六月に大正大学名誉教授となり、同四三年一一月には仏教戒律研究と仏教学進展への寄与が認められて銀杯を受章した。同四六年七月に増上寺に転董(八三世)。椎尾弁匡の遺志である大殿復興工事を受け、同四九年一一月に大殿落慶式開宗八〇〇年慶讃法要を奉修した。同五〇年二月には開宗八〇〇年記念の大五重道場を開莚。同五三年六月に法主を退任し、以後増上寺山内に退隠。師は朴訥ぼくとつ温厚にして、名号等の揮毫は比類ない独自の境地を示した。世寿一〇三歳。著書に『大乗戒経の研究』(理想社、一九五四)、『円戒概説』(浄土教報社、一九二二)、『善導大師と日本』(浄土宗、一九二八)、『律蔵概説/大乗戒史』(共著、仏教年報社、一九三四)、『法然上人』(法然上人鑽仰会、一九三五)、『戒学点描』(浄土宗、一九五四)等がある。


【参考】『大本山増上寺史・本文編』(大本山増上寺、一九九九)


【執筆者:西城宗隆】