椎尾弁匡
提供: 新纂浄土宗大辞典
しいおべんきょう/椎尾弁匡
明治九年(一八七六)七月六日—昭和四六年(一九七一)四月七日。順蓮社性誉随阿法海節堂。増上寺八二世、清浄華院七五世、共生会創立者、衆議院議員、仏教学者、教育者。現在の名古屋市西区新福寺町の円福寺(真宗高田派)に五男・椎尾匡丸として誕生、明治二一年(一八八八)に現在の同市瑞穂区の瑞宝寺で得度し弁匡と改名する。浄土宗学愛知支校・浄土宗高等学院の後、京華中学校に入学。中学校在学時に内地留学生となり、第一高等学校に進学。同三五年に東京帝国大学文科大学に入学して宗教学を専攻、同三八年の卒業時には優等生として銀時計を授与され、同大学大学院に進学する。指導教授は姉崎正治であった。大学院に在学しながら、宗教大学教授や早稲田大学講師として教壇に立つ。大正二年(一九一三)には東海中学校校長、および清林寺(東京都港区高輪)の住職に晋董。同四年には文学博士号を取得。同一五年には大正大学教授、昭和二年(一九二七)に文学部長、同一一年に学長兼専門学校長および他二つの女学校長に就任、同一七、二七年には大正大学学長に再び就任している。浄土宗内においても要職を歴任、大正一五年(一九二六)には建中寺、昭和一五年(一九四〇)には清浄華院、同二〇年には増上寺に晋董。特に戦後には、戦争で被災した増上寺の復興に並々ならぬ尽力をする。浄土宗の枠を超えた活動も精力的であり、衆議院議員に三度当選、昭和一〇年(一九三五)の財団法人共生会の創設、同二七年の世界仏教徒会議会長就任などその活躍は八面六臂であった。同一五年には教育功労者として勲四等瑞宝章、同三一年には学術上の貢献が大きいとして紫綬褒章を受章するなど、数多くの実績・業績を残している。八◯歳以降は失明状態であったが、講演・教化活動を熱心に続け、「昭和の鑑真」と称された。著作には、『仏教経典概説』『仏教要領十講』『安心生活』『人間の宗教』など多数。主なものは『椎尾弁匡選集』全一〇巻に収められている。
【参考】椎尾博士喜寿記念会『喜寿記念 椎尾博士と共生』(椎尾博士喜寿記念会、一九五三)、松濤基『椎尾弁匡先生伝』(東海学園同窓会、一九六一)、林霊法編『椎尾弁匡先生追悼録』(東海学園仏教青年会、一九七一)、藤井実応『椎尾弁匡先生の片影』(一九九〇)、大橋俊雄『浄土宗人名事典』(斎々坊、二〇〇一)
【執筆者:江島尚俊】