「西福寺」の版間の差分
提供: 新纂浄土宗大辞典
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さいふくじ/西福寺
一
埼玉県川口市西川口。久栄山寿光院。埼玉教区№一。元和七年(一六二一)起立。文政一一年(一八二八)成立の『諸檀林並拾七箇国触頭寺院連名帳』によると、岩淵筋七箇寺(岩淵正光寺、戸田常福寺、足立専称寺、増林林泉寺、六ヶ村清浄院、片山法台寺、与野長伝寺)と共同して武蔵国触頭を務めていた。
【資料】『浄土宗寺院由緒書』中(『増上寺史料集』六)
【参考】宇高良哲「浄土宗の触頭制度について」(『法然浄土教の綜合的研究』山喜房仏書林、一九八四)
【執筆者:郡嶋昭示】
二
東京都台東区蔵前。東光山良雲院。東京教区№二七六。天正二年(一五七四)建立。開基は徳川家康、開山は貞誉了伝。家康が、自害を思い留まった場所である三河大樹寺の了伝のために建立して、また慶長一三年(一六〇八)には二代将軍秀忠が江戸駿河台に松平西福寺を創建し、寛永一五年(一六三八)現在の地に移った。当時の西福寺は、三〇〇石の石高を受け住職は大名待遇を成されていたと言われている。また西福寺の末寺として七箇寺の別院、別寺があると共に学寮などがあった。
【資料】『蓮門精舎旧詞』二〇(続浄一八)
【執筆者:成田洋志】
三
福井県敦賀市原。大原山。福井教区№七九。応安二年(一三六九)京都清浄華院で修学した良如が郷内の原の敷地に融通念仏の道場を建立したことにはじまる。明徳元年(一三九〇)には崇光上皇の勅願所、のち足利義持・同義教の祈願所となり寺領・伽藍も拡張、清浄華院の直末寺として北陸浄土宗の中心寺院となった。約三〇点にわたる重要文化財、名勝の書院庭園、約三〇〇点に及ぶ古文書が現存する。
【資料】玉山成元校訂『西福寺文書』(続群書類従完成会、一九七三)
【執筆者:中野真理子】
四
大阪府岸和田市春木本町。遍照山摂取院。大阪教区№三九四。応永年間(一三九四—一四二八)の創立で、当時は現在地より東の里という地にあり、七堂伽藍をそなえ、末寺も五十箇寺にのぼったという。のち、根来の兵火により焼失した伽藍を、天文二四年(一五五五)、当寺中興の灯誉光然が現在の地に復興した。昔は下馬止車の札も立てられ、たとえ重罪の者が当寺内に逃げ込んだとしても、助命されたという。元和元年(一六一五)大坂夏の陣の兵火により、大方丈一ヶ所を残し、灰燼に帰した。延宝元年(一六七三)以降、一一世法誉から一三世即誉の代に諸堂をそなえ、現在に至る。また、和泉の四三箇寺の触頭であった。なお二三世吉水賢融は清浄華院六九世ならびに金戒光明寺六一世に晋董した。
【資料】『清浄華院誌要』(浄全二〇)、『浄土宗寺院由緒書』上(『増上寺史料集』五)
【参考】竹中信常・水谷幸正編『法然浄土教の綜合的研究』(山喜房仏書林、一九八四)
【執筆者:藤野立徳】
五
佐賀県武雄市武雄町武雄。猒欣山浄土院。佐賀教区№五六。開山は西誉意外。開基は成松新左衛門信吉。天正一九年(一五九一)杵島郡塚崎荘の宮野村住吉城の郊外に建立されたが、慶長四年(一五九九)住吉城が焼失し領主後藤家信が武雄に移住するとともに、同六年武雄下西山村(現在地)に移転された。
【資料】『蓮門精舎旧詞』四二、『武雄史』
【執筆者:江島法俊】
六
京都市左京区南禅寺草川町。源智山。浄土宗西山禅林寺派。法然が源智に譲ったと伝える阿弥陀如来立像を安置。寺伝によると、古くは法勝寺境内の一院であったが、源智が小宰相局の菩提のため再興して西福寺と号したという。本尊阿弥陀如来立像の背面にある源智の銘を当寺の住職感翁謙明が宝永三年(一七〇六)に書き留めたものによると、法然の安置仏を送られた源智は、建保三年(一二一五)秋に当寺に住み、翌年の正月一〇日から二五日まで別時念仏を執行したとある。ただし『翼賛』四五では正月一九日とする。後に南禅寺末となるが、明治八年(一八七五)禅林寺の所轄となる。境内には『雨月物語』の著者上田秋成の墓がある。
【参考】望月信成「元祖より源智上人に附属せられし本尊」(『専修学報』二、一九三四)、浄宗会編『円光大師法然上人御霊跡巡拝の栞』(知恩院、一九九六)
【執筆者:山本博子】