「救いと悟り」の版間の差分
提供: 新纂浄土宗大辞典
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すくいとさとり/救いと悟り
宗教的教説の基本的性格または信仰形態をさすことばで、救いの宗教・悟りの宗教というように宗教の類型として用いられることもある。仏教では、仏の本願を信じ慈悲にすがって浄土往生するという究極的目的を得ようとするのが救いの宗教であり、自らの迷妄・煩悩を修行によって脱却(解脱)し理法に叶った本性(仏性)を明らかに証得しようとするのが悟りの宗教である。信仰が有する構造から言えば、絶対者(神・仏)を信仰の対象として立てる宗教と立てない宗教とに分けられ、前者の場合に救い型の信仰がみられ、後者には悟り型の信仰がみられる。宗教の類型から言えば、概して、キリスト教は救い型であり、仏教は悟り型であるとされる。しかし仏教の場合には、浄土門・聖道門、他力・自力、易行道・難行道といった観点によって、教えが分判される。阿弥陀仏の本願を信じ念仏を称えることにおいて救いを得る他力易行道の浄土門と、自らの策励によって禅定に入り悟りに達する自力難行道の聖道門とである。ここに特徴的に、救いの教えとしての浄土門と悟りの教えとしての聖道門、または救いと悟りという二つの信仰形態を指摘することができる。浄土門では、阿弥陀仏の本願力による浄土往生が説かれるゆえに、往生の語が救いを意味していることが特質である。法然は『選択集』一六で「計れば、それ速やかに生死を離れんと欲せば、二種の勝法の中には、且く聖道門を閣いて、選んで浄土門に入れ。浄土門に入らんと欲せば、正雑二行の中には、且く諸の雑行を拋って、選んで正行に帰すべし」(聖典三・一八五)と明らかに分判し、称名正行の優勝性が示されている。また『無量寿経釈』で「往生浄土の法門は、未だ煩悩の迷いを断ぜずして、弥陀の願力に依りて極楽に生ずるとは、永く三界を離れて、六道生死を出ず」(昭法全六八)と述べ、『三心義』では「聖道門というはこの娑婆世界にて煩悩を断じ菩提を証する道なり。浄土門というはこの娑婆世界を厭いかの極楽を欣いて善根を修する門なり」(聖典四・三三一/昭法全四五五)と言う。救いの宗教としての浄土の法門の特徴、すなわち、他力易行による救いの浄土門と自力難行による悟りの聖道門という捉え方が具体的に語られている。聖聡は『一枚起請見聞』において「浄土の中には極楽を最と為し、諸仏の中には弥陀を本と為す。往生とは諸宗悟道の異名なり」(浄全九・一一下)としている。諸仏の浄土の中で阿弥陀仏の極楽浄土が最も優れ、諸仏の中で阿弥陀仏が本礎であるゆえに、往生(=救い)というのは悟道(=悟り)の異なる名称であると指摘されるのである。ここには、聖冏による「諸宗超過の法門」としての浄土宗の教えの優勝性の脈絡がみられる。
【参考】藤本淨彦「救済と解脱」(『宗教の哲学』北樹出版、一九八九)、峰島旭雄編『浄土教とキリスト教』(山喜房仏書林、一九七七)、日本仏教学会編『悟りと救い』(平楽寺書店、一九七九)
【執筆者:藤本淨彦】