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「新善光寺」の版間の差分

提供: 新纂浄土宗大辞典

 
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2018年3月30日 (金) 06:25時点における最新版

しんぜんこうじ/新善光寺

札幌市中央区南六条西一丁目。北縁山広度院。北海道第一教区№三四。明治一七年(一八八四)大谷玄超の開山増上寺の札幌別院として創建された。大谷は明治一五年に有志巡教使として北海道に渡り、はじめ小樽熊碓くまうす観音堂(現・長昌寺)を拠点に活動し、布教の際の喜捨の一部を当寺建立基金にあて、さらに説教所や出張所などを建立、やがて寺院へと昇格させていった。明治三六年(一九〇三)現在地に移転。老人ホームや病院・幼稚園などの付属施設を有する。


【参考】『大本山増上寺史』(大本山増上寺、一九九九)


【執筆者:𠮷水成正】


新潟県東蒲原郡阿賀町津川。仏光山称往院。新潟教区№五五。もと藤田派本山。天台僧定尊が建久年間(一一九〇—一一九九)信濃善光寺如来夢告により、等身大の如来を鋳造し、西村と津川の境に一寺を建立。貞治年間(一三六二—一三六八)に藤田派の僧唱名の弟子感誓が松木谷の地に中興し浄土宗改宗藤田派本山として栄えた。越後国触頭ふれがしらの一寺。慶長一五年(一六一〇)と明治一三年(一八八〇)の二度火災にあうも再建。


【資料】『浄土宗寺院由緒書』中(『増上寺史料集』六)


【参考】宇高良哲『近世関東仏教教団史の研究』(文化書院、一九九九)


【執筆者:中野真理子】


滋賀県栗東りっとう市林。九品山万寿院。滋賀教区№三五四。『近江国栗本郡高野郷新善光寺縁起』によると、高野庄に隠れ住んだ小松左衛門尉宗定こまつさえもんのじょうむねさだが仁治年間(一二四〇—一二四三)平氏追福のために信濃善光寺へ四八回参詣し夢告を受け、建長五年(一二五三)善光寺如来の分身を当地に移安したのに始まるという。寛文元年(一六六一)膳所ぜぜ藩主本多俊次が本堂を再建し、寺領を寄進し、如来堂を改め新善光寺と称した。


【資料】『蓮門精舎旧詞』二四(続浄一八)、『浄土宗寺院由緒書』下(『増上寺史料集』七)


【参考】『近江栗太郡志』五(栗太郡役所、一九二六)


【執筆者:曽田俊弘】


京都市下京区富小路五条下ル本塩竈町。通称来迎堂。京都教区№一〇七。開創は、一条天皇が善光寺本尊を模した阿弥陀如来立像を南都より請来したことに由来する。天仁二年(一一〇九)には鳥羽天皇が永観供養導師として招き七堂伽藍を整備した。その後、戦火などで荒廃するが、天文元年(一五三二)、瓜連うりづら常福寺で修学した顕月によって復興。文禄元年(一五九二)頃、来迎堂町から現地に移ったという。知恩院住持の隠居寺となることが多かった。


【資料】『浄家寺鑑』二、『蓮門精舎旧詞』二(続浄一八)、『瓜連常福寺志』(浄全一九)


【執筆者:加藤弘孝】