「三昧」の版間の差分
提供: 新纂浄土宗大辞典
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さんまい/三昧
修行によって心の散乱を止めた、やすらかで静かな状態のこと。ⓈⓅsamādhiの音写。三摩地、三摩提、三摩帝等とも音写し、定、等持、正受等と訳す。『俱舎論』根品に「三摩地は謂わく心一境性なり」(正蔵二九・一九上)というように、心を一の対象に集中して散乱させない状態を意味する。この状態でさとりの智慧が起こる。意訳の「定」を死と関連させ、火葬や埋葬の意味で用いることもある。また、この状態で仏陀等の聖境を見ることがあり、これを三昧発得という。三学の内の定学に相当する。『大智度論』四三によれば、三昧は声聞法中の三昧と摩訶衍法中の三昧に大別され、阿毘曇中に広く分別するとして声聞法中の三昧に三種類の三三昧(空、無相、無願/空空、無相無相、無願無願/有覚有観、無覚有観、無覚無観)、五支三昧、五味三昧を挙げ、「復次に一切の禅定を、亦定に名づけ、亦三昧に名づく」(正蔵二五・二六八中)として禅と定と三昧を同義とする。あるいは四禅と禅と定と三昧を同義ともする。また四禅以外の諸定を定といい三昧というが禅とはいわないともする。一方、摩訶衍法中の三昧については、首楞厳三昧をはじめ至虚空際無所著解脱三昧、如見一切仏三昧などの名称を挙げ、無量阿僧祇の菩薩の三昧があるという。実際、大乗経典中には数多くの三昧の名称が説かれており、中には経典名に三昧の名称を冠するものもある。その中には阿弥陀仏に関係するものもある。『般舟三昧経』に説く般舟三昧は、諸仏現前三昧、仏立三昧ともいい、諸仏が行者の目の前に立ち現れる三昧であり、経中では阿難の前に阿弥陀仏が立ち現れる。『如幻三摩地無量印法門経』(異訳『観世音菩薩授記経』)で説かれる如幻三昧は、その三昧を得ることで種々に身体を変化させ衆生を教化することが可能となり、阿弥陀仏の極楽世界こそは如幻三昧を逮得するための国土と位置づける。「浄土三部経」では、『無量寿経』には、三三昧の他、仏華厳三昧、清浄解脱三昧、普等三昧、滅尽三昧といった三昧名が用いられる。『観経』では韋提希が釈尊に「我れに正受を教えたまえ」(聖典一・二九一/浄全一・三九)と要請するが、善導は「正受と言うは、想心すべて息み、縁慮並び亡じて、三昧と相応するを、名づけて正受とす」(聖典二・一六八/浄全二・四下)と述べて三昧と相応するとし、また念仏三昧や、諸仏現前三昧にも言及する。
【執筆者:齊藤舜健】