三昧発得
提供: 新纂浄土宗大辞典
さんまいほっとく/三昧発得
心を一点に集中させた深い静寂の状態(禅定)において正しい智慧が生じ仏などの勝れた境地を感見すること。浄土宗では、口称念仏によって散り乱れている心が安らかで深い静寂の状態(三昧)に達したときに、求めずして正しい智慧が生じて自ずから極楽の依正二報(浄土の様相と仏・菩薩・聖衆など)を目の当たりに感じ見ることを念仏三昧発得という。法然は『選択集』一六私釈で「善導和尚は是れ三昧発得の人なり。道においてすでにその証有り。故に且くこれを用う」(聖典三・一八六/昭法全三四八)と言って、浄土の教えを立てるにあたって「偏に善導一師に依る」理由としている。法然も但信口称念仏によって三昧を発得した六六歳正月から七三歳までの間のことが、いわゆる『三昧発得記』の中で「上人在世の時、口称念仏三昧を発得され常に浄土の依正を見たまう」(昭法全八六三)として伝えられている。聖光は『徹選択集』下において「念仏三昧は本願、本、見仏を以て所期と為すが故に、口に名号を称え、必ず仏を見たてまつらんと大誓願を起す。これすなわち不離仏・値遇仏の義なり」(聖典三・三一〇/浄全七・一〇六上)と、三昧発得と見仏を結びつけている。すなわち、凡夫は乱想にして煩悩に塗れているため、自力で見仏できないが、必ず口称念仏による阿弥陀仏の加念(三念願力)を得て仏を見る(見仏)のである。浄土宗では、特に別時念仏を修するにあたって上記のような意味での見仏三昧を所期とすると言えよう。
【資料】『西方指南抄』、『醍醐本』、『正徳版 拾遺漢語灯録』、『大徳寺本 拾遺漢語灯録』、『四十八巻伝』
【参考】石井教道『浄土の教義と其教団』(宝文館、一九二九)、藤堂恭俊『法然上人研究(一)』(山喜房仏書林、一九八三)、藤本淨彦「法然上人における念仏三昧と念仏往生—『三昧発得記』と『選択集』—」(同『法然浄土宗学論究』平楽寺書店、二〇〇九)、同「法然浄土宗学論」(知恩院浄土宗学研究所編『八百年遠忌記念 法然上人研究論文集』、二〇一一)
【執筆者:藤本淨彦】