「止観」の版間の差分
提供: 新纂浄土宗大辞典
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− | 心の散動を静めて一つの対象に集中するのを止といい、それによって正しい[[智慧]]を起こし、対象を如実に[[観察]]することを観という。両者は[[仏道]]の完成のために不離な関係である。また定を止、慧を観に当てて[[定慧]]二法といい、これに戒を加えた[[三学]]は<ruby>[[比丘]]<rt>びく</rt></ruby>の修すべき[[修行]]のための学業とされる。止はⓈśamathaⓅsamatha、観はⓈvipaśyanāⓅvipassanā、音写語では[[奢摩他]]・毘鉢舎那。最初期の[[仏教]]では、それ以前の[[ウパニシャッド]]やジャイナ教に見られるⓈdhyānaⓈyogaⓈsamādhiなどの語を用い、[[止観]]の原語は見ることができない。のちに[[仏教]]独自の概念をもってこの語が登場したと考えられている。ただし止に代わる[[禅定]]、観に代わる[[智慧]]の語をもって両者の関係を明らかにする教えが『ダンマパダ』三七二に「[[智慧]]のない者には[[禅定]]がない。[[禅定]]のない者には[[智慧]]がない。[[禅定]]と[[智慧]]とをそなえた者は、ニルヴァーナの近くにいる」と説かれている。[[止観]]を[[観門]]として体系化したのは[[智顗]]の『[[修習]][[止観]][[坐禅]][[法要]]』(『小[[止観]]』)『[[摩訶止観]]』で、『小[[止観]]』には[[止観]]を定義して、<ruby>泥洹<rt>ないおん</rt></ruby>の真法はこの二法を出でず、とする。その理由を「止はすなわち結を伏するの初門、観はこれ惑を断ずるの正要なり。止はすなわち心識を愛養するの善資、観はすなわち神解を策発するの妙術なり。止はこれ[[禅定]]の勝因、観はこれ[[智慧]]の由籍なり」([http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT2018/V46.0462b.html 正蔵四六・四六二中])と説く。さらに「もし人、[[定慧]]の二法を成就すれば、これすなわち[[自利・利他]]の法、みな[[具足]]せん。故に[[法華経]]にいわく、仏、自から大乗に住し、その所得の法のごとき、[[定慧]]の力もて[[荘厳]]せり。これをもって[[衆生]] | + | 心の散動を静めて一つの対象に集中するのを止といい、それによって正しい[[智慧]]を起こし、対象を如実に[[観察]]することを観という。両者は[[仏道]]の完成のために不離な関係である。また定を止、慧を観に当てて[[定慧]]二法といい、これに戒を加えた[[三学]]は<ruby>[[比丘]]<rt>びく</rt></ruby>の修すべき[[修行]]のための学業とされる。止はⓈśamathaⓅsamatha、観はⓈvipaśyanāⓅvipassanā、音写語では[[奢摩他]]・毘鉢舎那。最初期の[[仏教]]では、それ以前の[[ウパニシャッド]]やジャイナ教に見られるⓈdhyānaⓈyogaⓈsamādhiなどの語を用い、[[止観]]の原語は見ることができない。のちに[[仏教]]独自の概念をもってこの語が登場したと考えられている。ただし止に代わる[[禅定]]、観に代わる[[智慧]]の語をもって両者の関係を明らかにする教えが『ダンマパダ』三七二に「[[智慧]]のない者には[[禅定]]がない。[[禅定]]のない者には[[智慧]]がない。[[禅定]]と[[智慧]]とをそなえた者は、ニルヴァーナの近くにいる」と説かれている。[[止観]]を[[観門]]として体系化したのは[[智顗]]の『[[修習]][[止観]][[坐禅]][[法要]]』(『小[[止観]]』)『[[摩訶止観]]』で、『小[[止観]]』には[[止観]]を定義して、<ruby>泥洹<rt>ないおん</rt></ruby>の真法はこの二法を出でず、とする。その理由を「止はすなわち結を伏するの初門、観はこれ惑を断ずるの正要なり。止はすなわち心識を愛養するの善資、観はすなわち神解を策発するの妙術なり。止はこれ[[禅定]]の勝因、観はこれ[[智慧]]の由籍なり」([http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT2018/V46.0462b.html 正蔵四六・四六二中])と説く。さらに「もし人、[[定慧]]の二法を成就すれば、これすなわち[[自利・利他]]の法、みな[[具足]]せん。故に[[法華経]]にいわく、仏、自から大乗に住し、その所得の法のごとき、[[定慧]]の力もて[[荘厳]]せり。これをもって[[衆生]]を度す」([http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT2018/V46.0462b.html 同])と述べて、[[止観]]は[[禅定]]と[[智慧]]を完成させるための[[修行]]実践とする。[[曇鸞]]は『[[往生論註]]』下([http://jodoshuzensho.jp/jozensearch_post/search/detail.php?lineno=J01_0239 浄全一・二三九上]~下/[http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT2018/V40.0835c.html 正蔵四〇・八三五下]~六上)に[[止観]]の止に三義を示して[[浄土教]]的[[解釈]]をほどこす。すなわち[[一心]]に専ら[[阿弥陀仏]]を念じて[[往生]]を願えば[[名号]]は一切の悪を止め、また[[安楽]]土に生じた[[往生人]]の悪を止め、さらに[[声聞]]・<ruby>[[辟支仏]]<rt>びゃくしぶつ</rt></ruby>を求める心を止める、と説く。 |
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【参考】中村元「原始仏教における止観」(関口真大編『止観の研究』岩波書店、一九七五)、中村元訳『ブッダの真理のことば 感興のことば』(岩波書店、一九七八) | 【参考】中村元「原始仏教における止観」(関口真大編『止観の研究』岩波書店、一九七五)、中村元訳『ブッダの真理のことば 感興のことば』(岩波書店、一九七八) | ||
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【執筆者:大南龍昇】 | 【執筆者:大南龍昇】 |
2018年9月17日 (月) 10:08時点における最新版
しかん/止観
心の散動を静めて一つの対象に集中するのを止といい、それによって正しい智慧を起こし、対象を如実に観察することを観という。両者は仏道の完成のために不離な関係である。また定を止、慧を観に当てて定慧二法といい、これに戒を加えた三学は比丘の修すべき修行のための学業とされる。止はⓈśamathaⓅsamatha、観はⓈvipaśyanāⓅvipassanā、音写語では奢摩他・毘鉢舎那。最初期の仏教では、それ以前のウパニシャッドやジャイナ教に見られるⓈdhyānaⓈyogaⓈsamādhiなどの語を用い、止観の原語は見ることができない。のちに仏教独自の概念をもってこの語が登場したと考えられている。ただし止に代わる禅定、観に代わる智慧の語をもって両者の関係を明らかにする教えが『ダンマパダ』三七二に「智慧のない者には禅定がない。禅定のない者には智慧がない。禅定と智慧とをそなえた者は、ニルヴァーナの近くにいる」と説かれている。止観を観門として体系化したのは智顗の『修習止観坐禅法要』(『小止観』)『摩訶止観』で、『小止観』には止観を定義して、泥洹の真法はこの二法を出でず、とする。その理由を「止はすなわち結を伏するの初門、観はこれ惑を断ずるの正要なり。止はすなわち心識を愛養するの善資、観はすなわち神解を策発するの妙術なり。止はこれ禅定の勝因、観はこれ智慧の由籍なり」(正蔵四六・四六二中)と説く。さらに「もし人、定慧の二法を成就すれば、これすなわち自利・利他の法、みな具足せん。故に法華経にいわく、仏、自から大乗に住し、その所得の法のごとき、定慧の力もて荘厳せり。これをもって衆生を度す」(同)と述べて、止観は禅定と智慧を完成させるための修行実践とする。曇鸞は『往生論註』下(浄全一・二三九上~下/正蔵四〇・八三五下~六上)に止観の止に三義を示して浄土教的解釈をほどこす。すなわち一心に専ら阿弥陀仏を念じて往生を願えば名号は一切の悪を止め、また安楽土に生じた往生人の悪を止め、さらに声聞・辟支仏を求める心を止める、と説く。
【参考】中村元「原始仏教における止観」(関口真大編『止観の研究』岩波書店、一九七五)、中村元訳『ブッダの真理のことば 感興のことば』(岩波書店、一九七八)
【執筆者:大南龍昇】