「空也」の版間の差分
提供: 新纂浄土宗大辞典
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2018年9月17日 (月) 01:17時点における版
くうや/空也
延喜三年(九〇三)—天禄三年(九七二)九月一一日。市聖、阿弥陀聖と呼ばれた平安中期の民間念仏僧。弘也とも書き「こうや」とも読む。源為憲が『空也誄』を作りその事蹟を記載、慶滋保胤が『日本往生極楽記』(続浄一七・九下)に空也の伝を入れたが、空也自身は経歴や活動についての記述を残していない。『空也誄』によると、五畿七道を遍歴して名山霊窟で修行し、道を開き橋をかけ曠野の死骸を火葬して弥陀の名号を唱えた。二十余歳で尾張国分寺で剃髪し、空也と自称した。その後、播磨国峯合寺で一切経を学び、阿波・土佐の境の湯島で修行、東北行脚して天慶元年(九三八)入京すると、市中を乞食し貧民に施物をあたえ、井戸を掘り、獄舎に卒塔婆を建てた。天暦二年(九四八)比叡山に登山、天台座主延昌につき受戒、光勝の名を与えられたが沙弥名である空也をとおした。『大般若経』書写の発願をし、応和三年(九六三)賀茂の河原で盛大な供養会が行われた。西光寺を拠点に活動し天禄三年入寂。遺跡の西光寺は貞元二年(九七七)中信により天台別院六波羅蜜寺として再興され勧学会の会場となった。一遍は空也を踊り念仏の始祖と仰ぎ、六波羅蜜寺には鹿杖をつき鉦を叩きながら、口から六体の阿弥陀仏像を出す空也像(康勝作、国重要文化財)が伝来する。滋賀県近江八幡市の浄土宗荘厳寺にも同型の像が存する(国重要文化財)。
【資料】『空也誄』(『続群書類従』八)
【参考】『六波羅蜜寺民俗資料緊急調査報告書』(第一・第二分冊、元興寺仏教民俗資料研究所、一九七一・一九七二)、伊藤唯眞編『浄土の聖者 空也』(吉川弘文館、二〇〇五)、今堀太逸『権者の化現』(思文閣出版、二〇〇六)
【執筆者:今堀太逸】