「観音菩薩」の版間の差分
提供: 新纂浄土宗大辞典
Seishimaru (トーク | 投稿記録) 細 (1版 をインポートしました: 20180917 リンクと画像表示修正) |
|||
1行目: | 1行目: | ||
=かんのんぼさつ/観音菩薩= | =かんのんぼさつ/観音菩薩= | ||
− | [[仏教]]における代表的な[[菩薩]]で、大悲の精神を[[象徴]]する[[菩薩]]である。[[弥陀]][[三尊]]として[[勢至菩薩]]とともに[[阿弥陀仏]]の[[脇侍]]である。ⓈAvalokiteśvaraⓉspyan ras gzigs dbang phyugなど。阿縛盧枳低湿伐羅、蓋楼亘などと音写され、[[観世音菩薩]]、光世音[[菩薩]]、[[観自在菩薩]]ともいう。『[[法華経]]』第二五章の「[[観世音菩薩]]普門品」は、通称『[[観音経]]』といわれ、[[観音菩薩]]を[[信仰]]することで得られる種々の[[功徳]]を説き示し、特に[[観音菩薩]]の名を称えることで、様々な[[利益]]を受けることが説かれている。また[[観音菩薩]]は[[救済]]すべき[[衆生]]の願いや能力に合わせて、種々の姿に[[変化]]して現れ、あるときには仏となり、あるときには子どもとなり、さらには人間以外の生き物の姿をもって、[[衆生]][[救済]]を成し遂げる[[菩薩]]である。『八十華厳』入[[法界]]品によれば、[[観音菩薩]]の住まいは補怛洛迦(Ⓢpotalaka)と呼ばれる。[[チベット仏教]]の中心地であるラサのポタラ宮はこれに因んだものであり、ダライ・ラマは[[観音菩薩]]の[[化身]]とされる。また[[観音菩薩]]には[[十一面観音]]、[[千手観音]]、[[馬頭観音]]、<ruby>不空[[羂索]]<rt>ふくうけんじゃく</rt></ruby>観音など種々がある。[[浄土教]]における[[観音菩薩]]は[[阿弥陀仏]]の[[脇侍]]として重要であり、また『[[観経]]』にはその[[相好]]が説かれている。初期[[無量寿経]]とされる『[[大阿弥陀経]]』と『[[平等覚経]]』では、[[観音菩薩]]は蓋楼亘[[菩薩]]と訳されており、この蓋楼亘[[菩薩]]は摩訶那鉢[[菩薩]]([[勢至菩薩]])と共に常に[[阿弥陀仏]]の左右につき従い、[[阿弥陀仏]]が[[入滅]]した後には仏となって[[衆生]]を導く存在とされている。しかしながら、『[[無量寿経]]』など後期[[無量寿経]]では[[阿弥陀仏]]の[[入滅]]に関する内容が削除され、[[観音菩薩]]にそのような役割が付与される記述は存在しない。[[観音菩薩]]の[[行相]]は『[[観経]]』に詳しく説かれ、第八観では「<ruby>一<rt>ひと</rt></ruby>りの[[観世音菩薩]]の像の、左の[[華座]]に坐するを想え」(聖典一・二九九/[http://jodoshuzensho.jp/jozensearch_post/search/detail.php?lineno=J01_0043 浄全一・四三])とあり、また第十の[[観音観]]では、観音の[[相好]]を示した後に「その余の身相、衆好[[具足]]せり。仏のごとくにして異なることなし。ただ頂上の<ruby>[[肉髻]]<rt>にっけい</rt></ruby>と無見頂相は[[世尊]] | + | [[仏教]]における代表的な[[菩薩]]で、大悲の精神を[[象徴]]する[[菩薩]]である。[[弥陀]][[三尊]]として[[勢至菩薩]]とともに[[阿弥陀仏]]の[[脇侍]]である。ⓈAvalokiteśvaraⓉspyan ras gzigs dbang phyugなど。阿縛盧枳低湿伐羅、蓋楼亘などと音写され、[[観世音菩薩]]、光世音[[菩薩]]、[[観自在菩薩]]ともいう。『[[法華経]]』第二五章の「[[観世音菩薩]]普門品」は、通称『[[観音経]]』といわれ、[[観音菩薩]]を[[信仰]]することで得られる種々の[[功徳]]を説き示し、特に[[観音菩薩]]の名を称えることで、様々な[[利益]]を受けることが説かれている。また[[観音菩薩]]は[[救済]]すべき[[衆生]]の願いや能力に合わせて、種々の姿に[[変化]]して現れ、あるときには仏となり、あるときには子どもとなり、さらには人間以外の生き物の姿をもって、[[衆生]][[救済]]を成し遂げる[[菩薩]]である。『八十華厳』入[[法界]]品によれば、[[観音菩薩]]の住まいは補怛洛迦(Ⓢpotalaka)と呼ばれる。[[チベット仏教]]の中心地であるラサのポタラ宮はこれに因んだものであり、ダライ・ラマは[[観音菩薩]]の[[化身]]とされる。また[[観音菩薩]]には[[十一面観音]]、[[千手観音]]、[[馬頭観音]]、<ruby>不空[[羂索]]<rt>ふくうけんじゃく</rt></ruby>観音など種々がある。[[浄土教]]における[[観音菩薩]]は[[阿弥陀仏]]の[[脇侍]]として重要であり、また『[[観経]]』にはその[[相好]]が説かれている。初期[[無量寿経]]とされる『[[大阿弥陀経]]』と『[[平等覚経]]』では、[[観音菩薩]]は蓋楼亘[[菩薩]]と訳されており、この蓋楼亘[[菩薩]]は摩訶那鉢[[菩薩]]([[勢至菩薩]])と共に常に[[阿弥陀仏]]の左右につき従い、[[阿弥陀仏]]が[[入滅]]した後には仏となって[[衆生]]を導く存在とされている。しかしながら、『[[無量寿経]]』など後期[[無量寿経]]では[[阿弥陀仏]]の[[入滅]]に関する内容が削除され、[[観音菩薩]]にそのような役割が付与される記述は存在しない。[[観音菩薩]]の[[行相]]は『[[観経]]』に詳しく説かれ、第八観では「<ruby>一<rt>ひと</rt></ruby>りの[[観世音菩薩]]の像の、左の[[華座]]に坐するを想え」(聖典一・二九九/[http://jodoshuzensho.jp/jozensearch_post/search/detail.php?lineno=J01_0043 浄全一・四三])とあり、また第十の[[観音観]]では、観音の[[相好]]を示した後に「その余の身相、衆好[[具足]]せり。仏のごとくにして異なることなし。ただ頂上の<ruby>[[肉髻]]<rt>にっけい</rt></ruby>と無見頂相は[[世尊]]に及ばず」(同三〇二/[http://jodoshuzensho.jp/jozensearch_post/search/detail.php?lineno=J01_0043 同四五])と述べ、[[観音菩薩]]の姿が、[[肉髻]]と無見頂相を除き、ほぼ仏と同じであることを明かしている。【図版】巻末付録 |
---- | ---- | ||
【参照項目】➡[[聖観音]]、[[如意輪観音]]、[[十一面観音]]、[[千手観音]]、[[馬頭観音]]、[[不空羂索観音]]、[[補陀落信仰]]、[[観音信仰]] | 【参照項目】➡[[聖観音]]、[[如意輪観音]]、[[十一面観音]]、[[千手観音]]、[[馬頭観音]]、[[不空羂索観音]]、[[補陀落信仰]]、[[観音信仰]] | ||
---- | ---- | ||
【執筆者:石田一裕】 | 【執筆者:石田一裕】 |
2018年9月17日 (月) 01:17時点における最新版
かんのんぼさつ/観音菩薩
仏教における代表的な菩薩で、大悲の精神を象徴する菩薩である。弥陀三尊として勢至菩薩とともに阿弥陀仏の脇侍である。ⓈAvalokiteśvaraⓉspyan ras gzigs dbang phyugなど。阿縛盧枳低湿伐羅、蓋楼亘などと音写され、観世音菩薩、光世音菩薩、観自在菩薩ともいう。『法華経』第二五章の「観世音菩薩普門品」は、通称『観音経』といわれ、観音菩薩を信仰することで得られる種々の功徳を説き示し、特に観音菩薩の名を称えることで、様々な利益を受けることが説かれている。また観音菩薩は救済すべき衆生の願いや能力に合わせて、種々の姿に変化して現れ、あるときには仏となり、あるときには子どもとなり、さらには人間以外の生き物の姿をもって、衆生救済を成し遂げる菩薩である。『八十華厳』入法界品によれば、観音菩薩の住まいは補怛洛迦(Ⓢpotalaka)と呼ばれる。チベット仏教の中心地であるラサのポタラ宮はこれに因んだものであり、ダライ・ラマは観音菩薩の化身とされる。また観音菩薩には十一面観音、千手観音、馬頭観音、不空羂索観音など種々がある。浄土教における観音菩薩は阿弥陀仏の脇侍として重要であり、また『観経』にはその相好が説かれている。初期無量寿経とされる『大阿弥陀経』と『平等覚経』では、観音菩薩は蓋楼亘菩薩と訳されており、この蓋楼亘菩薩は摩訶那鉢菩薩(勢至菩薩)と共に常に阿弥陀仏の左右につき従い、阿弥陀仏が入滅した後には仏となって衆生を導く存在とされている。しかしながら、『無量寿経』など後期無量寿経では阿弥陀仏の入滅に関する内容が削除され、観音菩薩にそのような役割が付与される記述は存在しない。観音菩薩の行相は『観経』に詳しく説かれ、第八観では「一りの観世音菩薩の像の、左の華座に坐するを想え」(聖典一・二九九/浄全一・四三)とあり、また第十の観音観では、観音の相好を示した後に「その余の身相、衆好具足せり。仏のごとくにして異なることなし。ただ頂上の肉髻と無見頂相は世尊に及ばず」(同三〇二/同四五)と述べ、観音菩薩の姿が、肉髻と無見頂相を除き、ほぼ仏と同じであることを明かしている。【図版】巻末付録
【参照項目】➡聖観音、如意輪観音、十一面観音、千手観音、馬頭観音、不空羂索観音、補陀落信仰、観音信仰
【執筆者:石田一裕】