「阿鞞跋致」の版間の差分
提供: 新纂浄土宗大辞典
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あびばっち/阿鞞跋致
菩薩が仏道修行の道筋を後戻りしないこと。また、その境地。ⓈavinivartanīyaⓈavaivartikaの音写。阿毘跋致とも書き、阿惟越致とも音写する。不退転と訳す。仏道修行を後戻りしない境地について言えば声聞の修道階位においても設定されており、『俱舎論』二三には四善根位の忍位に到ると退転することなく、無間業を造らず悪趣に堕しない、と説かれている。ただし阿鞞跋致は菩薩の境地について言われるものであって、菩薩道を歩むものが悪趣や二乗(声聞、縁覚)に退堕しない境地をいう。この境地は広く大乗仏教一般で菩薩の当面の目標とされていたようで、各種の般若経典をはじめ多くの経論で言及される。「浄土三部経」では、『無量寿経』には、第十一願「住正定聚願」に、往生した衆生がすべて定聚(不退転)に住すること、同じく第四十七願(得不退転願)に、聞名によって不退転に至ることが誓われ、また、三輩のうちの上輩、中輩が不退転に住することを述べるなど、菩薩の境地としての「不退転」の語が頻出する。また『阿弥陀経』では「衆生生ずる者は皆是れ阿毘跋致なり」(聖典一・三一八/浄全一・五三)と、極楽に往生した衆生がすべて阿毘跋致であるという。また『十住毘婆沙論』阿惟越致相品では、菩薩を阿惟越致と惟越致の二種に大別し、同じく易行品に「阿惟越致地に至るは、諸の難行を行持して久しくして乃ち得べし。或は声聞辟支仏地に堕せん、若し爾らば大衰患なり」(正蔵二六・四〇下~一上)と述べた上で「若し諸仏の所説に易行道の疾く阿惟越致地に至ることを得る方便有れば、願くは為に之を説け」(同四一上)とあるのは、菩薩の当面の目標として阿鞞跋致の境地が設定されていたことを示すものである。ここにいう易行と難行は、阿鞞跋致に至ることについての難易であって、これを受けて曇鸞は『往生論註』に「難行道とは謂わく、五濁の世、無仏の時に於いて阿毗跋致を求むるを難とす。…易行道とは謂わく、但だ信仏の因縁を以て浄土に生ぜんと願ずれば、仏の願力に乗じて便ち彼の清浄の土に往生することを得。仏力住持して即ち大乗正定の聚に入る。正定は即ち是れ阿毗跋致なり」(浄全一・二一九上)とし、阿弥陀仏の願力により、浄土に往生することを契機として阿鞞跋致に至ることを主張する。また不退には、位・行・念の三不退説、これに処不退を加えた四不退説があり、西方浄土は処不退と位置づけられる。
【執筆者:齊藤舜健】