「無能」の版間の差分
提供: 新纂浄土宗大辞典
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2018年3月30日 (金) 06:34時点における最新版
むのう/無能
天和三年(一六八三)—享保四年(一七一九)一月二日。興蓮社良崇、諱は学運、守一と号す。俗姓は矢吹氏。磐城国石川郡須釜郷(福島県石川郡玉川村)の人。奥羽念仏史上に名高い捨世派念仏聖。一四歳で発心し、一七歳のとき伊達郡桑折大安寺で出家、当国の名越派檀林専称寺に入寺。のち白旗派の飯沼弘経寺、江戸増上寺でも修学したが、宗戒両脈は二三歳のとき専称寺良通の下で相承。求道の志念に燃える彼は煩悩に打ち克つため絶婬を誓い、断食念仏を繰り返すなど苦修練行し、二七歳に至って遁世の宿志を遂げ、日課念仏六万遍の一向専念の行者となる。さらに正徳三年(一七一三)三一歳のとき男根を断ち、日課十万遍以上の身となって七二項の制誡を記した。奥羽二州(福島・山形両県)に及ぶ活発な布教勧化は、同年を含む以後のおよそ五年間に集中し、信者の現瑞奇瑞の体験に特徴がある。その激烈な行動を象徴するかのように、享保四年、三七歳の若さで入寂。日課誓約後の生涯念仏総数三億六千九百三十万遍、日課授与者の総数十六万九千百七十余人。著作に『勧心詠歌集』『伊呂波和讃』『近代奥羽念仏験記』等がある。
【資料】『無能和尚行業記』(浄全一八)
【参考】長谷川匡俊『近世の念仏聖無能と民衆』(吉川弘文館、二〇〇三)
【参照項目】➡無能和尚行業記
【執筆者:長谷川匡俊】