空阿弥陀仏
提供: 新纂浄土宗大辞典
くうあみだぶつ/空阿弥陀仏
一
久寿二年(一一五五)—安貞二年(一二二八)正月一五日。空阿とも称す。法性寺の僧(一説に字法性)。明遍の有智の空阿弥陀仏に対し、無智の空阿弥陀仏ともされた。もと延暦寺の住僧で、法然に帰依して称名念仏に励み、経や礼讃を好まず在所も定めず、風鈴の妙音を愛玩した。多念の念仏を勧め、『七箇条制誡』には一四一番目に署名。また、藤原信実に法然の絵像を描かせたり、法然の往生にも侍座した。建保五年(一二一七)三月藤原隆信の孫二条院姫宮が、空阿に帰依し、四八日の念仏会に多数を集めると山衆の訴えるところとなった。さらに嘉禄元年(一二二五)、山門の強訴で洛外に追われるが、四天王寺の西門辺で念仏を弘め、戻ると中山で迎講を修した。一条高倉にも住したが、同三年七月六日の官宣旨で、隆寛や幸西とともに天台の度縁剝奪遠流となった。このとき原秋沢と改名させられ、薩摩(一説には壱岐)に流罪となり、翌安貞二年正月別時念仏七日に、さらに七日の念仏を修し、一五日に寂す。
【資料】東京大学史料編纂所編『大日本史料』五—四・安貞二年正月一五日の条、『明月記』建保五年三月二九日・嘉禄元年五月四日の条(国書刊行会)、『蓮門宗派』(『法然教団系譜選』青史出版、二〇〇四)
【参考】三田全信『成立史的法然上人諸伝の研究』(平楽寺書店、一九七六)、菊地勇次郎『源空とその門下』(法蔵館、一九八五)
【参照項目】➡文讃
【執筆者:野村恒道】
二
⇨明遍(みょうへん)