本地垂迹
提供: 新纂浄土宗大辞典
ほんじすいじゃく/本地垂迹
本来の境地と、後から現れた姿。本地としての仏・菩薩と垂迹としての神。日本の神は世の中の人たちを救うため仏・菩薩が現れたものとみる神仏同体説は、神仏習合思想の発達したもので平安中期ごろから見える。神は仏が権りに現れたものとして、八幡大権現・熊野権現のように権現号が付けられた。神社は祭神の本地仏を安置し、社僧を置くことで、神仏両方の利益享受の場となった。中世には自然霊や死霊という民俗神を実類神・実社神として、垂迹神である権社神と区別して崇敬する必要はないとも主張された。鎌倉中期から室町期にかけて神本仏迹の理論化もすすめられ、室町期には吉田兼俱は仏教は花実・儒教は枝葉・万法の根源は神道にありとする唯一神道を主張した。江戸時代には儒者や国学者により俗神道として排撃されたものの、村落の宗教生活にまで浸透した。本地垂迹説は仏教に縁のなかった民衆に仏・菩薩の教えを説明する必要から創出された論理でもあったので、法然も『選択集』一六において「仰いで本地を討ぬれば、四十八願の法王なり。十却正覚の唱え、念仏に憑有り。俯して垂迹を訪えば、専修念仏の導師なり」(聖典三・一九〇)と述べ、善導は弥陀の化身であり、『観経疏』が弥陀の直説、西方指南の書であることを説明するのに使用している。各種法然伝においても、法然の本地を勢至菩薩とし、祖師法然の生涯を救済者として描くのに使用されている。浄土宗の布教活動のなかで念仏と神祇との関係を説いたものに建長八年(一二五六)信瑞が諏訪一族の上原敦広の質問に答えた『広疑瑞決集』と、永和三年(一三七七)聖冏撰『破邪顕正義』がある。念仏が現世祈禱となること、神社に向かって念仏するようなことが不敬にならないことが、阿弥陀仏と仏・菩薩、神々との本地垂迹関係から説かれている。
【資料】『諸神本懐集』、『四巻伝』「公胤夢告」
【参考】村山修一『本地垂迹』(吉川弘文館、一九七四)、今堀太逸『神祇信仰の展開と仏教』(同、一九九〇)、同『本地垂迹信仰と念仏』(法蔵館、一九九九)
【執筆者:今堀太逸】