本体である本地としての仏や菩薩が人々を救うために、仮に神や人間など別の姿となって現れること。垂跡とも書く。日本の神々は仏が衆生救済のために現れたものとする考え方で、熊野証誠殿や宇佐八幡は阿弥陀仏の垂迹とされる。善導の『観経疏』が弥陀の直説であり、西方指南の書であることから、善導を阿弥陀仏の垂迹とする(『選択集』一六)。また、法然を勢至菩薩の垂迹とするのもその例である。
【参照項目】➡本地垂迹
【執筆者:今堀太逸】