捨身往生
提供: 新纂浄土宗大辞典
しゃしんおうじょう/捨身往生
往生のために自ら命を絶つこと。その方法によって自害往生、入水往生、焼身往生などと呼ばれる。浄土教が広まるにつれて、この世を穢土として厭い、早く極楽浄土に往生したいと願う者が増え、実際に各種の往生伝において中国では五世紀中頃から、日本では一〇世紀末頃からその事例が紹介されている。『四十八巻伝』には法然に帰依した津戸三郎為守が切腹し往生を遂げたことが述べられている。ただし、同書にはその後に「末代当世の行者は機根弱き故に、仮令、思い立つ者ありとも、その期に臨みて、若し後悔の一念も起こりぬべし。然らば何の詮かあらむ。…ふかく上人の勧化を信じて、念々相続、畢命為期の行を勤むべきものなり」(聖典六・四五〇~一)とあり、捨身往生は上機の者こそ遂げられるものの、下機の者は必ず後悔の念が起こるものであるから、命終わるまで念仏を続けるべきである旨を法然・聖光の論説を引用して示している。良忠も『疑問抄』において「上機は平生にも身命を惜しまざるの者有るべし。然れば大師御在世の時、身を捨て往生するもの百余人なり。下機はこれを学ぶべからず。最後に至って、もしは忘念を発すべきが故に」(聖典五・三六六/浄全一〇・五七上)と述べ、下機の捨身往生を戒めている。
【執筆者:安孫子稔章】