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誓願寺

提供: 新纂浄土宗大辞典

せいがんじ/誓願寺

秋田市旭南。正覚山如幻院。秋田教区№一。良正文冏の開山。慶長一〇年(一六〇五)に起立。はじめ文冏は、土崎湊に如幻庵という草庵を結んで念仏三昧の生活をしていたが、常陸から移封された佐竹義宣が秋田城内に阿弥陀堂を建立し、その開眼供養を勤めたことにより、現在の寺町に建立された。これは佐竹氏の城下町経営策の一環とみられ、佐竹氏とその家臣から寺領五〇石の寄進をうけ伽藍の整備を行った。


【資料】『浄土宗寺院由緒書』中(『増上寺史料集』六)


【参考】『秋田県史』二(秋田県、一九六四)


【執筆者:𠮷水成正】


東京都荒川区南千住。豊徳山恵心院。東京教区№三三五。奈良時代末期(宝亀一一年〔七八〇〕頃)に草創され、長保元年(九九九)源信が東北地方に布教を行った際、天台宗寺院として開基されたと伝えられている。その後、荒廃したが慶長元年(一五九六)中興である増上寺一八世随波により復興され、天台宗から浄土宗へと改宗し、増上寺末寺となった。


【参考】荒川区民俗調査団編『南千住の民俗』(東京都荒川区教育委員会、一九九六)


【執筆者:高瀬理衣】


甲府市東光寺。大宮山一行院。山梨教区№一五。大永元年(一五二一)愚底弟子弁誉印公(『甲斐国志』は霊印)の開山。武田信玄の父信虎の帰依を受けて古府中(横沢といわれる)に創建。その後、文禄年間(一五九二—一五九六)に甲府築城に伴い現在地に移転した。往時は寮舎一〇、末寺一〇箇寺を有していた。


【資料】『浄土宗寺院由緒書』上(『増上寺史料集』五)、『甲斐国志』七三(『甲斐叢書』一一)


【参考】『甲府市史』通史編第一巻原始・古代・中世(甲府市、一九九一)


【執筆者:𠮷水成正】


岡山県倉敷市阿知。仏光山成親院。岡山教区№一三。藤原成親が安元三年(一一七七)鹿ししたにの変により備前国に配流の途中、当地に逗留した由縁により院号とする。応永三一年(一四二四)善慶開基。その後一時衰退し、天正八年(一五八〇)中国地方へ布教に赴いていた五世安楽策伝により再興をはじめ、六世随公により元和年間(一六一五—一六二四)に中興した。華頂宮法親王より代々寵遇をうけ、菊の御紋、紫の幕、金襴の袈裟を賜り、永代使用の命を戴く。


【資料】『蓮門精舎旧詞』三三(続浄一九)


【参考】『都窪郡誌』(都窪郡教育会、一九二三)、『倉敷市史』五(名著出版、一九七三)


【執筆者:鴫谷真策】


松江市寺町。本縁山。出雲教区№三一。開山は伝誉雲公。もと能義郡富田(島根県安来市広瀬町富田)にあり藩主堀尾氏の先祖位牌、墳墓に常に香華を献じる自家所属の香華寺だったが、慶長一六年(一六一一)に堀尾吉晴が居城を富田城から松江に移した際に当地に移った。堀尾家、京極家と断絶の後、松江藩主となった松平直政は二代将軍徳川秀忠の霊廟を安置し、国内諸宗の上席と定めた。元禄元年(一六八八)火災にあうも、翌年に再建する。


【資料】『蓮門精舎旧詞』四六


【参考】『松江市誌』(松江市、一九四一)


【執筆者:齊藤舜健】


長崎県平戸市戸石川町。五劫山引接院(『元禄寺院由緒書』には福智院とある。合併後現在の引接院となる)。長崎教区№四二。元知恩院末。天文一一年(一五四二)開山は宝誉了祐。寛政四年(一七九二)に全焼するが、三〇年後、寺之坂の法音寺と河内の安養寺とを合併し今日に至る。江戸時代には同地方の触頭ふれがしらであった。五世明蓮社源誉は、京都大雲寺貞安弟子であり、安土あづち問答では、待者として偉才を顕した。その後豊臣秀吉の命を受け、キリシタン宣教を阻止するため当山の住職となり、数多くの末寺を建立する。また同寺には、平戸藩主松浦家の墓所があり、藩主・奥方らが祀られている。


【資料】『元禄寺院由緒書』五一、『誓願寺縁起』、『諸檀林並拾七箇国触頭寺院連名帳』、『平戸史談』、平戸松浦資料館『諸宗本末帳』


【執筆者:宇高良哲】


東京都府中市紅葉丘。田島山快楽院。単立。江戸時代には天徳寺本誓寺大養寺とともに江戸四箇寺の一つだった。天正一八年(一五九〇)本誉が小田原(神奈川県)に創建。のち神田白銀町に移転。中興は嶺学。明暦三年(一六五七)大火後浅草に移る。一六世龍岳のときに徳川綱吉母桂昌院の帰依をうけ、二〇〇石の寺領を寄進され、さらに常紫衣格の寺院になった。本尊阿弥陀如来は安阿弥の作で、通称歯吹如来といわれたが、関東大震災により堂宇とともに焼失。大正一四年(一九二五)現在の府中市に移転して再建。なお、快楽院・称名院など一二院の塔頭たっちゅうのうち一一院は練馬区に移動し現在に至る。


【資料】『元禄寺院由緒書』五七、『文政寺社書上』浅草寺社書上(宇高良哲編『江戸浄土宗寺院寺誌史料集成』大東出版社、一九七九)


【執筆者:宇高良哲】


京都市中京区新京極通三条下ル桜之町。浄土宗西山深草派総本山法然上人二十五霊場第二〇番。法相宗蔵俊法然住持(二二世)に招いたとされ、円光大師二十五霊場第二〇番札所。開基は天智天皇、開山は恵隠僧都。もとは三論宗。天智天皇六年(六六七)現在の奈良市尼ヶ辻付近に創建され、後に平安京の一条小川へ移転。さらに豊臣秀吉によって東京極三条の現在地に移された。そのころ、松の丸殿こと京極龍子(秀吉側室)が大檀那として再建に尽力。当時の住持安楽策伝は『醒睡笑』八巻を著し、「落語の祖」として名高い。幕末の蛤御門の変に際して開創以来の本尊阿弥陀如来を失い、明治二年(一八六九)石清水八幡の極楽寺より丈六阿弥陀如来坐像を遷座。同五年、新京極通の開通により境内地は大幅に縮小。同七年、六孫王大通寺より二重屋根本堂を移築するも昭和七年(一九三二)本堂全焼。同一二年、本尊修復。同三九年、本堂再建。


【参考】湯谷祐三「『誓願寺縁起』関係資料」(『深草教学』一九、浄土宗西山深草派宗務所、一九九九)


【参照項目】➡浄土宗西山深草派


【執筆者:稲田廣演】