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愚底

提供: 新纂浄土宗大辞典

ぐてい/愚底

文安元年(一四四四)—永正一三年(一五一六)四月一一日。真蓮社勢誉。訓公ともいう。知恩院三世、三河大樹寺開山。京都に生まれる。飯沼弘経寺二世了暁のもとで弟子となる。三河に遊歴し松平親忠をはじめ一門の篤い帰依を受ける。文明七年(一四七五)鴨田(愛知県岡崎市)に大樹寺を草創。永正元年(一五〇四)兄弟弟子知恩院二二世珠琳じゅりんの師命によって知恩院三世となる。在住七年ののち、同八年ふたたび大樹寺に帰山し、寺院機構の完備に尽力する。同一三年、七三歳にて遷化大樹寺にみられる式定はすべて愚底の作であり、とくに勤行式定は浄土宗にとってはめずらしい独特なものである。在住中には僧侶養成・民衆教化などに活躍する。また同国に数箇寺の寺院を創建した。


【資料】『大樹寺御由緒旧記之写』(『三康文化研究所年報』四〇、二〇〇九)


【参照項目】➡大樹寺


【執筆者:宇高良哲】


—永正一四年(一五一七)六月六日。行蓮社経誉。あざなは運公。生地は信濃国であり、剃髪付法の師は増上寺三世聖観という(『東漸寺文書』)。文明一三年(一四八一)、下総国に小金東漸寺を開創。また医王寺、常行院や信濃国の洗馬せば東漸寺なども愚底の創建であると伝わる。なお『仏法山東漸寺史』の記述によれば、『蓮門精舎旧詞』二六(続浄一八)に出る洗馬東漸寺開基、長瀬右京亮政則は、愚底と同族であると考えられる。


【資料】『鎮流祖伝』五(浄全一七)、『蓮門精舎旧詞』四七(続浄一九)、『総系譜』中(浄全一九)


【参照項目】➡東漸寺


【執筆者:加藤弘孝】