選択伝弘決疑鈔
提供: 新纂浄土宗大辞典
せんちゃくでんぐけつぎしょう/選択伝弘決疑鈔
五巻。略して『選択決疑鈔』、あるいは単に『決疑鈔』ともいう。良忠撰。二祖聖光から相承した鎮西義にもとづき、法然の『選択集』の正意を顕らかにした注釈書。下総の在阿の要請によって鏑木の光明寺において撰述したと伝えるが、それは現在伝わる五巻本ではなく四巻本である。四巻本の撰述は建長六年(一二五四)仲秋上旬、良忠五六歳のときである。本書の題号について自序に「伝とは先師に伝うるなり。弘とは遺弟に弘むるなり。決疑とは仮りに賓主をたててほぼ疑関を解き、鈔とは衆文を抽んでてこれを筆点に題す」(浄全七・一八九上)と記し、巻末には「今三代の相承を以て、輙く五巻の決疑を記するのみ」(浄全七・三四七下)といい、法然・聖光・良忠三代相承の正義を伝える『選択集』の最も重要な指南書であると主張している。 『決疑鈔』における良忠の独自釈の特色について、その代表的な法然門下の論争を五項目に集約して述べると、第一は専修をめぐる論争(正雑二行と専雑二修)である。法然が正雑二行即専雑二修説を説いたのに対して、門下の長西は『専雑二修義』を撰述して、正行専修・正行雑修・雑行雑修・雑行専修等の四句分別をなして、このうち雑行専修と正行専修をもって百即百生であると主張した。これに対して良忠は『広本選択集』を引用して、法然の教えと異なると批判している。第二は諸行本願・非本願の論争である。伝長西撰『念仏本願義』によると、長西は第二十願をもって諸行生因、順次往生の願であると主張するが、一方、良忠は良源の『九品往生義』を根拠に第二十願順後業往生説をもって批判している。第三は三心釈の解釈をめぐる論争である。まず至誠心釈について、①濁悪の凡夫が至誠心(真実心)を発し得るか否か、②至誠心に浅深・高下・退失等があるか否か、③善導の「雖起三業」の釈文の解釈、④至誠心の体は何か、等の論点がある。次に深心釈について、①信機信法の二種深信釈と就人と就行の二種立信釈との関係、②良忠の深心釈の科文に年代的な変遷が認められる、③就人立信釈について、良忠はとくに京都在住時代に就人立信信機説から就人立信信法説へと大転換をはかっている、等の論点がある。さらに回向発願心釈について、①良忠の回向発願心釈は長西の『光明抄』とよく一致する、②良忠の回向義は挟善趣求の回向義であって、それにもとづいて良忠の諸行往生論が展開されている、③良忠の還相回向釈は『光明抄』の影響を受け、得生以後に具足すべき回向が還相回向であるとし、証空の、現世を意味する還相回向釈を批判している、等の論点がある。第四は往生をめぐる論争である。証空は往生について、平生の即便往生と臨終の当得往生の二種往生説を説く。これに対して良忠は「即とは不離の義なり。三心を発せば、必ず順次往生の因にして果を離れず。故に即便と云う」(浄全七・二七〇下)といい、即便往生を因果不離の意味に解釈して、当得往生と同義であると主張する。第五は諸行生不の論争である。まず証空は定散諸行はただ衆生の自力による因果の道理にもとづく修行であるから、垢障の凡夫が修する定散二善の力によって高妙な報仏の浄土に往生できる道理はあり得ないと批判する。これに対して良忠は、①浄土に往生する機類を、断証の機・諸行の機・念仏の機の三種に分け、三種相互間には往生に勝劣・難易があるものの、それぞれが往生できるといい、しかも、②そのうちの諸行の機は諸行の力によって往生するのではなく、摂機の願と称する別願に乗托することによって往生できると反論する。この良忠による諸行往生論は五巻本『決疑鈔』以後に成立した『浄土宗要集』第一〇論題において、西山義の諸行不生説の根拠となる一二の経文一々に徹底した反論を加え、諸行生不の論題として完成されるにいたる。
なお本書の注釈書に良忠『選択伝弘決疑鈔裏書』一巻、良暁『決疑鈔見聞』五巻、聖冏『直牒』一〇巻、持阿『選択決疑鈔見聞』一〇巻等がある。
【所収】浄全七
【参考】石井教道『選択集の研究 註疏篇』(誠文堂新光社、一九四五)、廣川堯敏「新出良忠述・一巻本『三心私記』について」(『仏教文化研究』三二、一九八七)、同「良忠述『選択集略鈔』をめぐる諸問題」(藤吉慈海喜寿記念『仏教学・浄土学論集』文化書院、一九九二)
【執筆者:廣川堯敏】