輩品開合
提供: 新纂浄土宗大辞典
はいほんかいごう/輩品開合
輩は三輩、品は九品のこと。浄土に往生する人びとに、行為の浅深によって三種に区別したものと、九種に区別したものとがあり、開けば九品となり、合すれば三輩になるとの意味。往生する素質(機)を分けて『無量寿経』には三輩を説き、『観経』には九品を説いているが、三輩を開いて九品とし、これは皆念仏往生を明かしたもので本来は同じであるということ。輩品の同異については諸師の間に異説があり、道光の『無量寿経鈔』六には、「問う、此の経の三輩、観経の九品と同とや為ん、異とや為ん。答う、諸師の義異るなり、天台と義寂と孤山と霊芝とは並に不同と云う、鸞師と嘉祥と浄影と法位と龍興と憬興と源清と悉く同の義を存す、彼の不同の義亦一準ならず」(浄全一四・一六二下)といい、各師の説の要点を述べている。つまり、曇鸞・吉蔵・浄影寺慧遠・法位・龍興・憬興・源清の七師は同の説、智顗・義寂・孤山・元照の四師は異の説とみなしているのである。この中、曇鸞の『略論安楽浄土義』には「無量寿経の中にはただ三輩上中下あり、無量寿観経の中には一品を又分かちて上中下となす。三三にして九なれば合して九品となす」(浄全一・六六七下)といい、慧遠の『無量寿経義疏』下には「九品を今合して三と為し、上品三人を合して上輩と為し、中品三人を合して中輩となし、下品三人を合して下輩となす」(浄全五・三六下)と述べ、善導の『往生礼讃』には「上輩は上行にして上根の人なり、浄土に生ずることを求めて貪瞋を断ず、行の差別に就いて三品を分かつ」(浄全四・三七三上)と述べている。このように、それぞれの立場に立って述べてはいても三輩と九品を同じと見ていることが解る。これらの説を受けて法然は『選択集』四に「ただし『観経』の九品と、『寿経』の三輩とは、本これ開合の異なり」(聖典三・一二八/昭法全三二四)という。両者が開合の異とすれば、三輩と同様、九品にもみな念仏が説かれなければならないはずであるが、九品の上中六品には念仏が説かれていない。これについて『選択集』では二通りの説明をしている。第一には『往生要集』を引き、念仏が九品のいずれにも通じることを明かし、第二に『観経』には広く定散二善を説くが、結びの念仏付属の文から推測すれば、それらの諸善をすべて廃捨して念仏一行に帰せしめているから、九品の行はみな念仏であるとしているのである。
【参考】石井教道『選択集全講』(平楽寺書店、一九六七)
【執筆者:金子寛哉】