操作

蓮華寺

提供: 新纂浄土宗大辞典

れんげじ/蓮華寺

滋賀県米原市番場。八葉山勧信院。浄土宗本山。『一向上人伝(五巻伝)』『葉山古錦』『時宗一向派起源抄』によれば、推古天皇二三年(六一五)聖徳太子が憲崇に命じて米山の麓に法隆寺を建立したのを始まりとする。建治二年(一二七六)雷火で焼失の後、日光山玄海阿闍梨弟子畜能と畜生が草堂を結び釈迦如来を安置していた。弘安七年(一二八四)諸国遊行していた一向がここを訪れ不断念仏を奉修、畜能と畜生弟子となり、領長鎌刃城主土肥元頼も帰依した。元頼は一向のために伽藍を再建し銅鐘を寄進、一向が越前より拝持してきた阿弥陀如来と先にあった釈迦如来二尊を安置し、蓮華寺と改称された。同一〇年、一向蓮華寺で没する。延慶二年(一三〇九)花園天皇は勅願の綸旨りんじを下賜。元弘三年(一三三三)足利尊氏の反乱で敗走した六波羅探題北条仲時ら四三二名は、馬場(番場)で敵方に阻まれ、一向堂(蓮華寺)前で自刃、三代良向は自害した者を記して『陸波羅南北過去帳』とした。文明二年(一四七〇)近江へ波及した応仁の乱の兵火により、堂宇は悉く災焼。明応一〇年(一五〇一)後柏原天皇の綸旨を受け現在地にやや移動して再建。慶長五年(一六〇〇)徳川家康は関ヶ原の陣中で二三代住持より十念を受け、戦勝後蓮華寺に禁制を下した。貞享三年(一六八六)天童仏向寺との本末諍論で、江戸幕府は蓮華寺本寺としたが、一向派時宗に属するとし、蓮華寺は幕府宗教統制のもと時宗中の一向派本寺(やがて時宗一向派大本山)とされた。元禄四年(一六九一)綸旨を受け参内奉祈、以後幕末まで住持は度々御所へ参内した。昭和一五年(一九四〇)一教団に一伝灯のみとする「宗教団体法」が施行され、一遍と関連のない一向派時宗から独立しようとしたが政府に認められず、同一七年一向良忠弟子であったことから文部省了解の上、浄土宗に合流、以後蓮華寺浄土宗本山になり、今日に至っている。文化財として『陸波羅南北過去帳』(国重要文化財)、弘安七年一〇月銘銅鐘(国重要文化財)、一向上人絵像(県文化財)を有す。


【資料】『太平記』九


【参考】大橋俊雄『番場時衆のあゆみ』(浄土宗史研究会、一九六三)、『浄土宗本山蓮華寺史料』(本山蓮華寺、一九八三)、『一向上人の御伝集成』(本山蓮華寺、一九八六)、大橋俊雄編『明治期一向派史料』(宇都宮一向寺、一九九三)


【執筆者:竹内真道】