菩提心
提供: 新纂浄土宗大辞典
ぼだいしん/菩提心
悟りを求め、獲得したいと願う心。Ⓢbodhi-citta。道意、道心とも訳される。菩提心は大乗仏教で熟成された用語で、その菩提(Ⓢbodhi、道)とは仏陀と同等の悟り、仏果である。漢訳ではくわしくは阿耨多羅三藐三菩提心、無上正真道意、無上正等覚心とも訳される。インドの仏典では阿耨多羅三藐三菩提へ向けて(Ⓢanuttarāyāṃ samyaksaṃbodhau)、心を(Ⓢcittam)発す(Ⓢud√pad)という用例が多くみられ、またこれを発菩提心、たんに発心ともいう。発心は将来必ず仏陀になる(作仏)という菩薩の誓願であり、大乗仏教では発心したものを菩薩という。用例としては、『大智度論』四「初めて発心し願を作す。我まさに作仏して一切衆生を度すべし。是れより已来、菩提薩埵と名づく」(正蔵二五・八六中)、『十住毘婆沙論』一「菩薩衆とは無上道の為に発心するを名づけて菩薩という」(正蔵二六・二一上)などがある。また『大智度論』四一「菩薩初めて発心し無上道を縁じて、我まさに作仏すべし、是を菩提心と名づく」(正蔵二五・三六二下)は菩提心に発心の意味も含めている。『無量寿経』上は法蔵菩薩の発心を「時に国王あり。仏の説法を聞きて、心に悦予を懐き、すなわち無上正真の道意を発し、国を棄て王を捐てて、行じて沙門となる。号づけて法蔵という」(聖典一・二二〇/浄全一・四)と説く。 『無量寿経』下は阿弥陀仏の極楽浄土に往生を願う上輩、中輩、下輩の三種の機根を説き、いずれも菩提心を発して阿弥陀仏を念じて往生を願うべしと説く。曇鸞の『往生論註』下は「三輩生の中、行に優劣有りと雖も、皆無上菩提の心を発さざることなし。…是の故に彼の安楽浄土に生ぜんと願ずる者は要ず無上菩提の心を発すなり」(浄全一・二五一下~二上/正蔵四〇・八四二上)と釈している。また『観経』は極楽に往生を願うものに三種の浄業(三福)をすすめ、その一つに発菩提心を説く。善導の『観経疏』は「菩提と言うは、すなわちこれ仏果の名なり。また心と言うは、すなわちこれ衆生能求の心なり。故に発菩提心と云う」(聖典二・二三二/浄全二・三一下)と釈し、またこの衆生の願いをかなえるため身口意の三業をもって利他行に精進するという。
法然は『選択集』四で、往生のための行業として、菩提心等の諸行と念仏を対比し、『無量寿経』は①諸行を廃捨し、念仏を立てる②諸行は助業であり、念仏は正業である③諸行は傍説であり、念仏は仏の正意である、と示すことを意図しているとみなす。つまり菩提心を往生のための必要条件とはしない。また『選択集』一二は、諸宗によって菩提心の義は不同であり「善導所釈の菩提心有り。つぶさには『疏』に述するがごとし」(聖典三・一六七/昭法全三四〇)といい、善導の理解に従うべきことを示唆する。ただし善導の『観経疏』の内容を明示していない。源智編の『浄土随聞記』には「唯だ善導一師のみ菩提心を発さざるも亦往生を得と許す」(浄全九・四六〇上)と師の法然は語ったとある。『選択集』を批判した明恵の『摧邪輪』は「菩提心を撥去する過失」(浄全八・六七五下)をあげる。聖冏の『糅鈔』四は願往生心の上に総と別の安心があり「遠く仏果を求るを菩提心と名づけ、近く往生を願ずるを三心と名づく。菩提心を総と云い、三心を別と云う」(浄全三・一一〇下)とする。
【参考】田上太秀『菩提心の研究』(東京書籍、一九九〇)、平川彰『初期大乗仏教の研究』(春秋社、一九六八)
【執筆者:小澤憲珠】