罪悪
提供: 新纂浄土宗大辞典
ざいあく/罪悪
一般的に、宗教や道徳などに反する悪い行為、または非難されるべき悪事、罪や咎などをいうが、仏教では戒律に反する行為を罪といい、これは悪に他ならないから「罪悪」となる。また、衆生の根源には貪、瞋、痴の三毒に代表される煩悩があり、煩悩が罪悪を造り出すことから、罪悪と同義に扱われる。仏教では、罪と悪と煩悩は必ずしもはっきりとは区別されない。罪悪の最大のものとして仏教では、五逆罪と十悪がよく出てくる。五逆とは殺母、殺父、殺阿羅漢、出仏身血、破和合僧。十悪とは殺生、偸盗、邪婬、妄語、綺語、悪口、両舌、貪欲、瞋恚、愚痴。十悪は身口意三業に当てはめ、初めの三つは身から出る悪(身三)、中の四つは口から出る悪(口四)、後の三つは心から出る悪(意三)として、いずれも自分自身から悪が生み出されていることを自覚させられる。浄土教では特に主体的に自らの凡愚性を認識していくことが必要であり、深い内省が出発点となる。そのため、善導は『観経疏』散善義で「一には決定して、深く信ず。自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫より已来、常に没し常に流転して、出離の縁有ること無しと。二には決定して深く信ず。かの阿弥陀仏四十八願をもって衆生を摂受したまう。疑い無く慮い無く、かの願力に乗じて、定んで往生を得と」(聖典二・二八九/浄全二・五六上)と説き、罪悪を積み重ね、生死輪廻を繰り返して解脱の縁がないことを自覚するのを第一としている。法然は『選択集』八でこれを引用し、その解釈に違いがない。法然はさまざまな場面で罪悪を語るが、特に『黒田の聖人へつかわす御文』(一紙小消息)で「罪人なりとても疑うべからず」「我が身悪しとても疑うべからず」「罪は十悪五逆のものも生まると信じて小罪をも犯さじと思うべし」(聖典四・四二〇〜一/昭法全四九九〜五〇〇)といって、罪悪を意識した人が阿弥陀仏の救いに乗じることを説き明かす。
【執筆者:伊藤真宏】