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浄土の実体

提供: 新纂浄土宗大辞典

じょうどのじったい/浄土の実体

阿弥陀仏が建立した極楽浄土の実質的な本体のことをいう。これについては真如実体論と願心実体論の二つがある。真如実体論とは極楽浄土真如法性を本質としているとする論であり、願心実体論とは極楽浄土阿弥陀仏四十八願を本質とするという論である。真如実体論の根拠としては、曇鸞往生論註』上の「この浄土法性に随順して法本にそむかず」(浄全一・二二三下)や善導般舟讃』の「不覚転じて真如門に入る」(浄全四・五三一下)および『観経疏定善義の「西方は寂静無為の楽なり。畢竟の逍遥有無を離れたり」(聖典二・二四八/浄全二・三八上~下)等があげられる。一方、願心実体論の根拠としては世親往生論』の「この三種の成就は、願心をもって荘厳せり」(浄全一・一九六)や「この三種荘厳成就は本、四十八願等の清浄の願心の荘厳したまう所なるに由って、因、浄なるが故に果、浄なり、無因と他因とにして有るにはあらずということを知るべし」(浄全一・二五〇上)および善導観経疏序分義の「弥陀の本国は、四十八願よりす」(聖典二・二二四/浄全二・二八上)等があげられる。この問題で重要なことは、浄土宗では『無量寿経』に説かれるように、阿弥陀仏の根源を法蔵菩薩とみなすのであり、真如を根源とはしないということである。極楽浄土真如が等流してできたのではなく、あくまでも法蔵菩薩四十八願発願を因として建立されたものとする。したがって、無相から有相荘厳)への展開は、阿弥陀仏四十八願成就によってなされるものであり、真如の理を悟った阿弥陀仏有相浄土を建立したと受け止めねばならない。真如実体論の根拠とされている説示は、いずれも真如の説明もしくは阿弥陀仏悟り無分別智)が有相荘厳(無分別後智)へと展開することを示すもので、厳密にいえば必ずしも真如実体論を意味するものではない。法然が『逆修説法五七ごしち日において依報正報功徳を説明し「みな仏の願力所成功徳なり」(昭法全二六三)と述べていることから、浄土宗においては、極楽浄土阿弥陀仏の悟った真如法性を元に阿弥陀仏の願心によって建立されたと解する。したがって真如から等流したのではなく願心によって建立された浄土真如が内包されていると解釈すべきである。


【資料】『大原談義聞書鈔』、『浄土四義私』


【参考】石井教道『浄土の教義と其教団』(宝文館、一九二九)、服部英淳『浄土教思想論』(山喜房仏書林、一九七四)、曽根宣雄「浄土教における仏辺と機辺」(『仏教文化学会紀要』一二、二〇〇三)、宮田恒順「有相浄土の研究—浄土の実体における一考察—」(浄土学四七、二〇一〇)


【参照項目】➡有相・無相


【執筆者:曽根宣雄】