信
提供: 新纂浄土宗大辞典
しん/信
一
仏教における信仰の総括的呼称。「信」と漢訳される原語は一定ではないが、Ⓢ√dhā(置く)という語根にⓈśrad(真実)を付した動詞から作られた名詞ⓈśraddhāⓅsaddhāが、古来インドでは信を表す最も一般的な語と考えられる。初期経典ではこの信(śraddhā)を含む出家者の実践徳目として五根(信根・精進根・念根・定根・慧根)、五力(信力・精進力・念力・定力・慧力)等があり、いずれの場合もこれらの徳目が信に始まって慧で終わるという「信→慧」の構造を有しており、信が仏教において入門的な意味合いを帯びていることが分かる。これを踏まえて『大智度論』は「仏法の大海は信を能入と為し、智を能度と為す」(正蔵二五・六二下)と説くが、これは初期仏教以来の信と慧との関係を的確に表現しているといえよう。つまり仏教の信は盲目的な信仰ではなく、慧と結びついた信、あるいは慧と相即した信と考えなければならない。つづいて信と訳される言語に、Ⓢpra√sad(浄める・静める・満足する)から作られた名詞ⓈprasādaⓅpasādaやその形容詞ⓈprasannaⓅpasannaがある。これは浄信や澄浄と漢訳されるが、信仰で心が落ち着き、清浄となり、また信によって得られる満ち足りた心境を意味している。この他にも浄土経典などの大乗経典において信の意味で使われる語にⓈadhimuktiⓅadhimuttiがある。これはⓈadhi√muc(その上に〔心を〕解放する・その上に〔心を〕傾注する)から派生した名詞で、信解や勝解と漢訳され、教えを信じて理解すること、あるいは対象に対して明確に決定する心の働きを意味する。初期経典では疑や惑の反対概念として信が位置づけられ、仏への疑惑を断ずることが信の表明であると説かれるが、では信とは具体的にいかなる心の働きを指すのかを部派仏教以降の論書の記述を手がかりに見てみると、興味深いことに、多くの論書において、信はⓈprasādaと解釈されている。つまり仏教の信とは、心が落ち着き、清浄となり、静謐な満足感に充たされている状態、あるいは心を清浄にし、落ち着かせる精神作用を意味するので、熱狂的、あるいは狂信的な信ではないことが理解され、ここに仏教の信の特徴を認めることができる。これは、ヒンドゥー教の説くⓈbhaktiⓅbhatti(身を悶えさせるような狂信的な信仰)が、阿弥陀仏への信を強調する浄土経典にさえまったく説かれないことからも首肯されよう。上に取り上げた三語の他にも、浄土経典には信を意味する語として、Ⓢava√kḷpの使役形(準備する・整える・思惟する)や、Ⓢprati√i(近づく・受け入れる)があり、前者は信頼する、後者は信受するというほどの意味で用いられている。
【参考】藤田宏達『原始浄土思想の研究』(岩波書店、一九七〇)
【執筆者:平岡聡】
二
浄土経典においては不信疑惑が厳しく戒められ(『無量寿経』の疑惑往生)、往生の要件を示すのに「信楽」の語が用いられる(『無量寿経』上、第十八願)ように、信は非常に重要な位置を占めている。『無量寿経』には信の文字は三五例見られる。このうち一〇例は不信(不肯信)として用いられていて、その九例は三毒五悪段に集中し、すべて作善によって福徳を得ること、因果・業報・経法に対する不信、残りの一例は疑惑往生の段にあって、仏の五智に対する不信をいう。また、四例は信が単独で用いられていて後ろに目的格を伴う。この四例は讃重偈に二例、五悪段に一例、疑惑往生の段に一例であり、いずれも「此の法」「罪福」のように教法を信ずることをいう。また、明信として用いられるものは疑惑往生段に二例あって、仏智、諸仏無上智慧を目的格とする。後者は梵本では、avakalpayanty abhiśraddadhaty adhimucyante(信頼し、信じ、信解する)をまとめて訳したもの。このほか、信受、信順あるいは信慧、信明、履信、忠信、無信が一例ずつ、また信心が二例、信楽が六例ある。これらのうち、信慧は梵本ではⓈśraddhāとⓈprajñāを並説するものであり、信心の一例は梵本でⓈabhiśraddadhatiである。また信心のもう一例(第十八願成就文)と信楽の内の一例(第三十五願)は梵本ではⓈprasādaが対応する。『阿弥陀経』では信の用例は一一例。すべて六方段以後に見られる。六方段の用例は六例で、梵本はすべてpratīyathaで(法門を)信受せよの意である。その後ろに「信受我語及諸仏所説」とあるが、この箇所も梵本ではśraddadhādhvaṃ pratīyatha mākāṅkṣayathaとなっている。また難信が二例で、梵本はvipratyayanīyaが用いられている。『観経』で信の文字が表れるのは四例に過ぎない。序分の三福の行福と第十四上輩観の上品中生に「深信因果」、上品下生に「亦信因果」、下品上生に「説甚深十二部経聞已信解発無上道心」とあり、前の三者は因果の道理を信じる、最後の一者は信解と熟語となっていて甚深十二部経が説かれるのを聞いて信解する、という意味であるから、いずれも教法を信じることを意味する。このように、三部経に見られる信は、仏語・教説・教法に対する信を中心とした知的なものである。また梵本の〈無量寿経〉〈阿弥陀経〉における信に対応する語は、(abhi-) Ⓢśraddhā、Ⓢprasāda、Ⓢadhimuktiに関連する語が中心である。このうち、プラサーダは静寂的な性格を持つものであり、アディムクティは信が知性的な性格であることを示している。梵本の〈無量寿経〉〈阿弥陀経〉では、熱烈な献身的信仰を意味するバクティ(Ⓢbhakti)が用いられていないことと併せて、浄土経典の信の様相を示すものであろう。これは法然が至誠心について「勇猛強盛の心を発すを至誠心と申すは、この『釈』の意には違うなり」(『往生大要抄』聖典四・三〇五/昭法全五二)とすることと通じるものがある。
【参考】藤田宏達『原始浄土思想の研究』(岩波書店、一九七〇)
【執筆者:齊藤舜健】